- 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録)

切り絵、パステル画、詩、書、発達障害(自閉症スペクトラム・ADHDなど)、愛着障害(アダルトチルドレン)、解離に関するもの、その他。 暫くは詩が中心です。

このブログの更新情報をメールでお届けいたします。
メールアドレスをご入力ください。
記事通知ブログパーツ「読んでミー。」

今日の放送について

今夜、発達障害の特集番組が、NHKで放送されるようですね。
NHKスペシャル「発達障害~解明される未知の世界~」という、タイトルだそうです。
感覚の違い、それから、当事者の声や思いを発信しようという事のようで、

これまで誤解されがちだった行動の裏にある「本当の理由」に迫り、

と、番組の内容には書いてありました。

何処まで、真実に迫れるでしょう?
誤解されがちだった、…。
誤解の果てに作り出されたステレオタイプが、さも、真実であるかのように、専門家でさえも揃って、その偽者のステレオタイプを語ってきた、霧に霞んだ幻の残像。
定型発達サイドによる、偏った見方によって、誤った定義が定着してしまった、この状況を、少しでも変える事が出来るのかしら、と、半分の期待と、残り半分の疑問を脳裏に、何を伝えてくれるのかを見てみようと思います。

今迄の、固定観念に左右された報道の、二番煎じにならなければいいけれど、と、幾ばくかの危惧を抱きながら、…。
番組を見た後で、うーっと、書きなぐらなければいけなくなるかも知れないですけど…。


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害へ
にほんブログ村

別窓 | 発達障害 | コメント:0 | トラックバック:0 | ∧top | under∨

心の大きさ、空ろな心

心の重さも大きさも測る方法を知りません。
心の重さは、その重圧感で感じることは出来ます。
楽しい時は、心も軽くなりますね。
反対に、悲しみが深くなればなるほど、心も重くなって支えきれなくなります。

心の大きさは如何なんでしょう。
或いは、心の深さですか。
心が広いとか狭いとか、ということは言いますね。
でも、心そのものがそれほど小さいとは思えません。
幾ら研究しても、その全貌が分からないほど深いんじゃないですか。
心の表面だけを見て、そこに写る姿が広いとか狭いとか言っているんでしょうね。

心を失くしたような状態を空ろ、或いは虚ろと表現しますが、はて、心そのものが測りきれないほど広大で深いと仮定すれば、その中は殆ど空ろなのかも知れません。
広大な心の小宇宙に、心の欠片が漂っているのを想像できます。
空ろな空間を、様々な心の欠片が漂っているんです。
其処は空ろであっても、虚ろではありません。
虚ろ(偽物)は、心の表面に現れた影模様の有様でしょうか。

僕のようなモノの、特有の言葉遊びかも知れませんが、心は小宇宙だって考えた方が楽じゃないですか。
いっぱいになってしまったように感じるのは、心の表面だけで、その奥の広大な空間は無限に広がっていて、どんなものも、奥深くまで流してしまえばいいだけなのかも知れないって、そんな風に思うんです。
心の表面が悲しみでいっぱいになったら、涙の海に乗せて、無限大の心の奥深くまで流してしまえばいいんですね、きっと。
不安が膨れ上がって、心の表面がはち切れそうになったら、ふーっと一吹きの風を呼んで、心の奥まで吹き飛ばしてしまえば、其処は空ろな無限空間、幾らでも余力が有るんです。

僕などは、心の表面よりも、もっと深くに居ることが多いので(ASD 特有なところも有るかも知れませんね)、底なしの深みを見る(意識する)ことが有りますが、誰でも同じくらいに広大な空ろ空間を心の中に持っていると思います。
最近、心は無限大の空間なのに、何故、いつもいつも、悲しみや不安で心がいっぱいになって支えきれなくなるんだろうって、そんな疑問が浮かびました。
心が限界を感じるのは、心の表面が限界を感じるだけなんじゃないかって、そんな気がしませんか?
実は、その奥に無限の空きスペースが有ることを知れば、少しだけ心の重さが減りませんか?
その減った分は、空ろの空間に吸い込まれていった筈ですよ。

悲しみも不安も、心の表面から上手く押し流して遣れるようになると…、それが上手く出来ればいいですね。
それ自体が消えて無くなるわけではないけど、その重荷は押し流して軽く出来るかも知れませんよね。
空ろな無限空間が心の奥に実在すると、ただ信じさえすれば…。 ね。

空ろな空間を彷徨うことの多い僕から、奇妙な発想をお届けしました。



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害へ
にほんブログ村

別窓 | 発達障害 | コメント:0 | トラックバック:0 | ∧top | under∨

翻訳のメカニズム

本題の前に。
僕自身、自閉症スペクトラムであると同時に、ADHD でもあります。
でも、表面上現れる特徴などは類似していることも多く、双方を持つ身としては、どの部分がどっちの障害に因るものなのか、などと、いちいち考えても詮無きこと。
更に、愛着障害も含有しているのですから、各障害の類似項の方が多いんです。
それに、今の分類にすら疑問を持っています。

ともかく、最近はその名称には余り考慮しません。
まして、個人差も大きく、その個人差を無視して大まかな枠の中に当て嵌めようとすること自体に、かなりの無理があるのを感じます。
そういう事ですので、障害の名称自体を省略することが多いことを、今後の前提として本題の前に…。


では、本題ですが、自分の中の言葉と外側(一般的な、とでも言っておきましょうか)の言葉とは、微妙に食い違っていたり、その意味する内容の解釈が違っていたり、とにかく、翻訳しないと理解が出来ないんです。
英詩の翻訳をしたことがありますが、何について書かれているのか、何を言いたいのか、その予測に基づいて翻訳していきます。
その予測が付かないと、すなわち、言いたいことの趣旨が掴めないと、翻訳はかなり難航します。

これと同じことを、母国語で有る日本語に於いても行っているということです。
英詩より余程楽なのは、単語の語彙数が桁違いに蓄積されているからですが、ただし、正確さに欠けます。
それは、独自の解釈をしてしまっているからです。
要約すると、母国語のように良く知っている異国語を駆使しているということです。
それで、翻訳しないと理解できないんです。

書かれたものは繰り返し読むことで、予測と翻訳をフルに活用します。
ネットで見る情報は、画面として瞬間的に捉えた中から言葉を記憶した画像から抽出し、必要とする言葉が見つかると読み始めます。
この時点で、書かれた内容の予測が付かない場合は、ざっと単語拾いをして、予測が付いてから読み始めます。
それでも、PC の画面で見るときは斜め読みが殆どです。

紙に印刷されたもの、書籍などを読む時は、様相が違ってきます。
先ず、斜め読みは殆どしません。
本の場合は、最初の帯びや解説、目次などから趣旨を予測します。
だから、帯びは大事に扱います。
それから、ゆっくりと時間を掛けて翻訳していきます。
時々、途中まで戻ったり、最初まで戻ったりしながら。
戻って、内容を再確認する時は斜め読みに近くなります。
途中で戻るのは記憶の問題もあります。
最後まで読んでから、もう一度読むまで待っていられないので、途中から戻って読むことが多くなります。
その上で、最後まで読んだ本を、もう一度読み直すこともあります。

こういった方法は、個人差がありますが。
映画を見ていても、よく巻き戻したり、何度も見たりします。


会話となると、読み返したり巻き戻りたり出来ないのがとても不便です。
話を聞き始めると、先ず話の趣旨を予測します。
この予測が出来ると、割とすんなりと翻訳が進んでいきます。
ただし、途中で予測に支障が生じると、翻訳がストップして頭の中でフリーズします。
何を言っているのか分からない、意味の無い言葉の欠片になって散乱してしまいます。

まして、最初から予測が出来なかった場合、何を話そうとしているのかの趣旨が分からないままだと、翻訳に齟齬が生じます。
いきなり混乱したところからスタートしてしまうので、最後まで意味不明のことが大半を占めます。

この予測と翻訳の作業に、かなりの労力を使っています。
僕は心と目を中心として、その他の情報を合わせて取り込みます。
それが、障害の特長とも言われる、共感できないという部分を補完(全く異質の補完の仕方ですが)しています。
その代わり、頭の中でヒートアップして、よく微熱が出ます。
話し始めると、長時間に及ぶことも有るので、帰った頃にはくたくたになって、暫く頭痛と微熱が続きます。
話を殆どしなくても、入ってくる情報量が多いだけでも疲労困憊してしまいます。

そんな状態なので、全ての情報に目を配りきれないで、何かを見落としてしまう。
主語が抜けたこと自体に気が付かないことがよくあります。
いきなり予測に支障をきたします。
主語が無いと予測が難しくなりますが、原因を特定する前に翻訳がストップして、頭の中でフリーズしてしまいます。

会話の内容に含まれた別の要素、それは、聞き取れたものに加えて、全ての見えるもの見えないものの情報を分析して、その意味を掴むまでにはその場では時間が足りません。
情報量が多すぎて分析に時間が必要なんです。
翻訳という余分な作業を必要としているので、普通?にその場で分かる、ということは不可能なんです。
脳内をフル回転させても、量子コンピューターの処理能力には遠く及ばないし、これ以上の平行処理ができるほどの余力が無いんです。

もともと、一つの事に使用するエネルギーが膨大で、つまり膨大なエネルギーを一つの事に集中させてしまい、他の事に廻すエネルギーが常に枯渇しています。
自分で話をし始めると、其処から抜け出せずに廻りを見る余裕も無くなってくる。
聞く時とは、全く違ったスイッチが入り、それも途中で止めると再起動が困難な重い歯車のスイッチ。
エネルギーも膨大に使用します。
途中で止めたら、そこで完全に途切れてしまう。
話すことと聞くことは全く異質の事なので、簡単に切り替えが出来ないんです。
切り替えて元に戻した時には、切り替え前の情報は失われていて、それで、話していた内容に戻ることが出来ないんです。
その恐れから、話を途中で止められない。

話すことと聞くことと、どっちが楽かなんて、比較は不可能です。
エネルギーの向かう方向が全く逆なので、一端完全に切り離して、接続し直さなければいけないようです。
とても効率が悪く、応用の利かない、理不尽なスイッチです。

翻訳自体が何故必要なのか、それは結構難しい問題です。
何故、自分の中で理解出来る言葉と、自分の外の普通?の世界の言葉との間が、直接は繋がっていないのか。
何故、翻訳しなければ自分の言葉として理解できないのか。
自分の中だけで、より多くの時間が経過し、外側の世界との交流の無い一つの、或いは複数の広大な世界が出来上がって、独自に進化してしまった。
そう考えるのが一番近いように思います。

それ以上の説明は、まだ無理です。
まだ、分からないことの方が多いのですから。

別窓 | 発達障害 | コメント:1 | トラックバック:0 | ∧top | under∨

作られる障害者という除外者

今のシステムの下では、障害者は作られるものだって気がします。
外見から分かる障害がある場合(身体の障害)は、後天的なものであればその時点から、先天的なものであれば最初から障害と見られます。
精神の障害の場合、特に見た目に分かり難い場合は、障害の手帳が交付されるまでは障害ではないようです。
ところが、手帳が交付された瞬間に障害になってしまうようです。
本人の事はどうでもいいんですね。

あくまでも、今日の話は精神の障害についてです。

「はい、ここから先は障害さんの日になります。」
「あなたは、まだ、明日にならないと障害にならないんですよ。」
そして公的な窓口でも、手帳が交付されるとがらりと変わります。
「はい、障害さんいらっしゃい。」
作り笑いを浮かべながら、うわべ温かく迎え入れてくれます。
言葉遣いも変わって子供に対するように、急変します。

いろいろなところで障害を意識させられ、障害者らしさを教えられます。
そして、徐々に障害者になって、障害者であることに依存してしまうようになります。
そして、管理しやすい障害者が出来上がっていくわけです。
大概の場所で、「障害者」として扱われます。
ほんとに障害者であるかどうかはどうでもいいんです。
背中にはんこを押されてるかどうかだけなんです。

今日はかなり毒舌になってますね。

いつまでも、障害としてしか見ることが出来ない未熟な社会。
障害の名の下に、才能も障害のはんこを押されてしまう。
才能そのものを見ようとはしない。
ちょっと悲しいですね。

なぜ、そんなに無理に分けたいんでしょうね。
人は個性があって当たり前です。
個性、特に才能に飛び抜けたものが有れば、その分不得意な部分が生まれます。
そうやって、バランスをとってるんです。
発達系の障害に限らないと思いますが、そこまで行くと話が尽きませんので、その話は今度又。
発達系の障害の場合、特にそう思うんですが、それってほんとに障害なんでしょうか。
そういう特性の人は、大概、人とは違った能力の一面を持っています。
そういうところを見ようとはしないんですね。
妬みもあるでしょうし、ちょっと違うと排除して隔離したがるのは、本能的なものでしょうか?

そういうと、今度は不得手な部分を攻め始める。
不得手な部分も個性があるから、人それぞれ違うはずです。
違いそのものを認め合えば、出来ない部分を補い合えば、其々の個性に最適な生き方が出来れば、…。


閉じた世界を持つ人は、その世界の中で独特の成長を遂げ、独特の世界を作り上げます。
その世界は、外へ広がる事を忌避する分、その内側で無限大に広がり続けます。
閉じた世界の小宇宙です。
確かに、パラレルワールドの世界ですね。
でも、その広大の世界のほんの一部しか見せてあげることは出来ません。
広大過ぎて、表現する手段が追い付かないんです。

外の世界に向けて表現することは、自分の命を削り出すような作業です。
その意味は、大概は理解できないと思いますが…。
何を書いても、伝え切れない虚しさが残ります。


話を戻しましょう。
お互いに少しずつ手を差し伸べあって、補い合えばいいだけなんじゃないでしょうか。
寄り添う心さえあれば、互いに支えあって、ほんとに豊かな(心の豊かな)社会が生まれるんじゃないのかな。
健常者が障害者を支えるという一方的なことで無く、健常者も障害者もないんじゃないでしょうか。
特性や得意なことが違うだけなんだから、それを補い合って互いに支えればいいだけなんじゃないでしょうか。
その中に、健常者も障害者もないんでは…。

全ての障害として扱われている、あらゆる障害を含めて言えることではないでしょうか。
今日は切りが無くなりそうなので、この辺で終わりにします。


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害へ
にほんブログ村

別窓 | 発達障害 | コメント:2 | トラックバック:0 | ∧top | under∨

絶滅危惧種

最近は、障害の名称とか病名とか、気にしなくなったんです。
借りに付けられた名前で、僕の名前はそんな名前じゃないし…。
アスペルガーって言葉も、最近使わなくなりました。
アスペルガーですら、無いように自分でも思うんです。
殆どの要素(ASD,ADHD,LD,AC)を持っていて、そのどこにも居ない。
縦割りの障害者分類の世界には、僕は住んでいないから。
居るとすれば、扉の向こう側。
心は、ずっと扉の向こう側に置いたまま。

個性があるし、みんな違うし、僕自身、誰とも殆ど一致しない特殊な部分も有ります。
同じ感覚を持っている人が居るのかどうか知りたくて、ネットのあちこちを探しました。
ドナ・ウィリアムズの 「自閉症だったわたしへ」 を紹介した記事に出会ったのが最初だったと思います。
原題の 「Nobody Nowhere」 の方が、実はよっぽどしっくりしますが…。
その後、本も買って読みました。

ドナと同じ感覚なんだと、始めて分かりました。
その後、他にもこんな感覚を持っている人が居るのかと探しましたが、今のところ痕跡すら見つかりません。
生きていること自体の苦しさを考えれば、こんな感覚を持って生きている人を探すのは不可能に近いのかも知れません。

謂わば、絶滅危惧種ですね。
絶滅危惧種は、殆ど絶滅してしまうのかな?

今日は、余り詳細には書かなかったので、興味があったらドナの本を探してみて下さい。
普通は、フィクションだと思うでしょうね。

もう少し、落着いたらもっと具体的に書きましょう。



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害へ
にほんブログ村

別窓 | 発達障害 | コメント:3 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
| - 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録) | NEXT