- 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録)

切り絵、パステル画、詩、書、発達障害(自閉症スペクトラム・ADHDなど)、愛着障害(アダルトチルドレン)、解離に関するもの、その他。 暫くは詩が中心です。

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自覚すること(気付き)と、自覚を促すこと

ちょっと昨日の話の続きから。
ゲノム編集が人への病気の治療に応用されるようになり、治らないと言われた障害も治るようになる可能性はあるかも知れません。
だからといって治してしまうことが良いことなのかどうか、発達障害については難しい問題だと思います。
生まれる前であれば後の心配はないでしょうが、年齢が高くなるにつれてリスクの方が大きくなると思います。
脳の発達段階で生じたものです。
発達してしまった脳を再構築できるとは思えません。
無理に再構築した場合は、想像もできない副作用に苦しむかも知れません。
生まれ持った才能を全て手放すような事になるかも知れません。
生きる上での生き難さはある程度改善されるかも知れませんが、それと引き換えに才能を無くしてしまったら何が残るでしょう。
発達障害を持つ人は、何かしらの才能を障害と引き換えに持っていると思います。(才能を自覚しているかどうかは分かりませんが)
そういった部分はとても大事で、それが生きる支えになっている場合が多いでしょう。
それがなくなってしまったら、生き難さが解消されても、生きていること自体が無意味に感じるかも知れません。
僕ならそうですが。

子供のうちであれば、柔軟に対応していけるかも知れませんが、才能を潰してしまう事になるかも知れないのを覚悟すべきでしょう。
そして発達障害というマイノリティが存在しなくなった社会はと考えると、そんな社会に生きていたくはないですが。
何となく生きている、発展する可能性の芽を失ってしまった停滞した社会が見えるような気がします。


さて、今日の本題です。
僕は発達障害だと自覚した事で、初めて自分の足で立って、自分自身として生きることを始められたと思っています。
ただし、簡単なことではなく、日々いろんな事があります。
厭な目にも合います。
急に何もかも上手くいくなんて事もありえません。
子供のうちであれば矯正出来る事も、大人になってからでは対処法すらない場合もあります。
発達障害の自覚後の発達については、いずれ別の機会に譲りますが、自覚すること自体はとても重要なことです。
ただし、受け入れることが出来ればです。
受け入れることが出来ない人もいますが、その場合は発達障害であることを知ったことで苦痛が増すことになります。

本人次第で大きく変わってしまうんです。
自覚した事で人生が大きく良い方向に変わっていった人もいます。
でも、如何変わるか、或いは、変わらない事も選択肢の一つです。
廻りの事は一切無視して、自分の生き方を貫き通すのも一つの生き方です。
本人の意思次第で、生き方が如何にでも変わっていくのですが、自覚しなければそのチャンスはありません。
その意味で、自覚する必要性を感じます。

もう一つの課題。
自覚を促すこと。
これは、とても大変なことです。
簡単に本人に言ってしまえばいいなんて、軽率な事を言って欲しくはありません。
「あなたは、発達障害ですよ」
なんて、いきなり言われたとしたら、かなりのショックです。
発達障害といっても個人差がかなりあるので、どんな反応を示すかは皆違います。
いきなり攻撃的になって怒り出す人、ショックの余り最悪の事を考えてしまう人、快く受け容れる人は殆どいないんじゃないかと思います。
専門医から言われたなら、ショックであっても受け容れるようになるでしょう。
でも、どんなに信頼関係が有ったとしても、専門的な立場の人以外から言われた時には、信頼は壊れる事を覚悟すべきでしょう。
それがまた、発達障害の特徴ですから。 特に自閉症系の場合は不安が大きいはずですから、信頼自体が見せかけのものしか構築できません。(殆どの場合ですが)
時間が立てば受け入れられるようになる人もいるでしょうけど、ずっと拒絶し続ける人もいると思います。

自覚を促すということには反対はしません。
でも、その後如何しますか。
本人の自覚を促すほど、その人のことを思っているのなら、生涯サポートしてあげるくらいの気持ちでいて欲しいと思います。
サポートについては前に書きました。
そのためには、先ず発達障害がどんなもので、如何サポートできるのか。
どんなことが大変で、如何手を貸してあげたり助言してあげたらいいか、そんなことを事前によく勉強して欲しいと思います。
そこまではというのなら、自覚を促すなどと考えずに距離を置いた方が無難です。

自覚を促すこと自体、かなりハードルが高いことです。
いったいどうやって…。
如何すれば本人を傷つけないで伝えられるでしょう。
どんな反応を示すかは、障害が有れば尚更予測不可能と思ってください。
本人が自覚するチャンスを上手く与えて上げられればいいですね。
後は、本人がそれに気付くかどうかですが、全く気付かない人もいるそうです。

僕は、無理に気付かせるより、自然に気付くように何らかのサインを残しながら、今現在の生き辛さを理解して廻りで手を貸したり、そっと見守ったり、そんな事から始めたらと思います。
発達障害でもいいんだと思える環境づくりをしてあげれば、気付きも早くなるかも知れませんし、自覚した後も、既にサポートする形が出来ていて、不安にならずに済むでしょう。
本当は、自覚してもしなくても自然と分かり合えて、互いにサポートし合うことで生き難さを感じずに生きていけるようになるといいんでしょうが。

僕が志しているのはピアサポートです。
自覚していない人にはピアサポートは出来ませんし、かなり危険な行為です。(ピアである故に却って危険だそうです)
ですから、サポートしたい人への助言や、或いは、自覚していない人には只の友人として話を聞いてあげるだけです。
サポート自体、そんなところから…、寄り添って耳を傾けて上げる事からでいいんじゃないでしょうか。

自覚のタイミングと言うのは、自ら気が付くか、二次障害で専門医に掛かることで分かるか、殆どがそのどちらかのようですね。

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心の方程式、最近気付いた事です

最近気付いた事があります。
シミュレーションを繰り返す事と、不安から不信に至るプロセスの関連性です。
以下、簡単に書いて見ました。


不安(ありとあらゆる事に日常的に不安を感じています)
   ↓
不安にならないように、シミュレーションして、これから起こる事のイメージを作ります。
   ↓
シミュレーションによるイメージから未来のビジョンを作り上げます(完成形)
   ↓
実際に起こる事との相違(予想と同じとは限りません、また、イメージが希望や不安とリンクして、どちらかに偏るので、尚更現実と一致しない可能性が増えます)
   ↓
一気に不安になる(こんな筈ではなかった筈なのに)
   ↓
他の不安を呼び込みます
   ↓
ちょっとした事も全てマイナスに考えるようになります(マイナスへの反転)
   ↓
不安要素がどんどん増えていきます
   ↓
人への不信が生まれます(信頼から不信への移行)
   ↓
一気に膨れ上がった不安が、全ての人への不信に繋がります
   ↓
自分世界に篭り、悶々として…
   ↓
外へ出たくない
人に会いたくない
こんな時に人に会うと、逆効果になる時もあります
   ↓
暫くこんな状態が続きます(鬱状態)


シミュレーションを止めるのは不可能でしょうし、他に不安を抑える効果的な方法がありません。
自分で予想したイメージに固執し過ぎることが問題です。
少し前に書いたことにも関連してきます。
また、思い込みの激しさが引き起こす危険とも関係してきます。
主張が強過ぎる時は、相手を振り回してしまいかねないからです。

不安から不信へのプロセスには、何らかの別の要素が絡んでいるのではないかと思いますが、ちょっと分からない部分です。

予想した事と、現実は違う事を知って、検証する習慣を付ける事も一つの方法かも知れません。
実際は、なかなか上手くいきませんが…。


今、テレビでゲノム編集の話を見ながら(聞きながら…書いていると、一部しか聞き取れませんが)書いてましたが、ゲノム編集はとうとう来たかといった感じですね。
この話は、いずれまた。

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自閉という事

自ら造った暗い部屋に閉じこもって、その暗さに浸りたくなる。
扉を開けて外に一歩踏み出しても、また、部屋の中に戻って扉を閉めてしまいたくなる。
外の世界を追い出してしまいたくなる。
そして、自分だけの世界に戻って、ずっとそこから離れたくなくなる。
外は不安だらけで訳が分からないから。

それとも、閉じ込めてしまいたくなるんでしょうか。
自分自身を。

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心の面白さと難しさ

人の心の動きは千差万別で、どんな反応を示すかを予想する事は、読心術にたけた人でなければ容易でないと思います。
僕らのような発達障害を持つ者にとっては、尚更予測不能です。
それだけに、心を読み取ろうと先読みし過ぎる事の方が多いのは確かです。
ただし、先読みして読み取ったと思った事を正しい事だと信じ過ぎてしまうきらいがあります。
自分の症状を自覚するようになってから、一旦は信じ込んだ事も後で検証するようになりました。
必ずしも正しいとは限らない事を知ったからですが、それに気付かない事の危険性を実感するようになったからでもあります。

心を探求する事はとても興味を惹かれます。
同時に、とても複雑で、人によって如何反応するか分からない怖さ、難しさに突き当たる事もあります。
何処まで行っても、探求の旅は終わらないのかも知れません。

さて、今日のです。



<いつか、きっと>
僕にとって喩えどんなに辛くても、
どんなに厭な目に合っても、
僕は僕の儘で在り続ける。
どんなに馬鹿にされようと、
どんなに不当な扱いを受けようと、
僕は障害を持った事を決して恥じはしない。
障害と共に誇りを持って生き続ける。
僕はそう自分に誓う。

弱い事は決して恥じる事じゃない。
弱い事を自覚する事は強みになる。
自分の弱さを知らない人は、
自分の弱さに負けてしまう。
自分の弱さを知っていれば、
自分の弱さに打ち勝つ方法を見つける事が出来る。

諦めない。
僕は決して諦めない。
いつかきっと、障害が有っても無くても、
誰もが堂々と誇りを持って生きていける日が来る事を疑わない。
誰もが互いの違いを認め、讃え合う日が来る事を信じ続ける。
いつか、きっと。

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ピアサポートとサポーター

最近、急にいろんな展開が動き出して、自分の方向性が明確になるにつれ、忙しい日々が続いて、ドゥドゥと逸る気持ちを抑えるのに必死です。
人との出会いの中で、どんどん未来が開けていくのを感じます。
ピアサポートを知った事で、これこそが自分で望んでいた生き方なんだと実感しました。
ピアサポートとは、同じような立場の人によるサポート、つまり当事者による当事者のサポートをいいます。
当事者同士のサポートであり、サポートを受けながらサポートしたり、広く言えば、誰もが互いにさポートし合える社会という事だと思います。
基本理念は誰もが平等であるという前提であり、障がい者であろうとそうでなかろうと、なんら区別する必要すらないのではないかと思います。

この道を指し示してくれたのは、ドナ・ウィリアムズですが、彼女が実際にどうやってソーシャルワーカーとして相手と接しているのかを知りたいところです。
ピアサポートについて何人かに相談するうちに、ピアであるゆえの利点と危険性を感じました。
ドナと同じ感覚を持つという事は、おそらく彼女が味わったであろう苦痛や危険を知ることになると思います。
心の共感覚で相手の心と共鳴(同化)します。
これが、強みであり、同時に最大の危険性となります。
この感覚は受身の感覚であって、相手に対しては何も与えてはいないと思っていました。
最近になって、僅かではあっても相手にも伝わっている事があるのを感じました。
受け取る量に比べたら、ほんの僅かですが。

受身の感覚であるだけに、相手の心に大きく振り回される危険は伴います。
でも、サポーターが居れば何とかなるかも知れませんね。
サポーターの必要性をひしひしと感じます。
暫くは、サポーターを伴ったピアサポートを志してみようと思います。
それにしても、サポーターを見つけるのが容易でないのは確かです。
県でサポーターの養成講座はあるのですが、講座を終了した人とのコンタクトすら出来ません。
自分たちで養成講座を、しかも各地域で開いて、どんどんサポーターを養成していかなければ進んでいかないですね。

サポートしたいと思ったら、先ず、必要になる用件が寄り添う心を持つ事。
寄り添ってあげる事ができなければ、相手は心を開きません。
相談したくても、相談する事すら出来ません。
何らかの障害を持つという事は、弱い部分があるということです。
その弱い部分を、補ってあげる(サポートしてあげる)ことで、その人にしかない何かを生かした生き方が出来るんじゃないでしょうか。
そして、よき理解者になることだと思います。
それには、その人の障害について学ばなければならないでしょう。
知らなければ、如何してあげればいいかも分からないはずです。
よき理解者とは、的確な時に的確なアドバイスをして、道を逸れそうになったら正しい道を指し示してあげることだと思います。
障害の種類にもよりますが、発達障害には発達障害独自の難しさがあります。
厳しい言葉には過剰に反応してひどく落ち込み、褒め過ぎると度を越して頑張り過ぎ体調まで壊してしまったり、かといって放って置くと孤独に打ちひしがれたり、上手く褒めて上げるとよく伸びるようですよ。
間違った時には、理論的にアドバイスして上げる必要があります。
遠まわしなアドバイスは逆効果です。
ストレートな一言で全てを理解する事もあります。
そして、その後のフォローを忘れずに。
そんなところでしょうか。
サポーターに求められるものは。
但し、自分自身をベースにした発達障害に対するサポートに付いてですが。

障害の種類が違えば、対応も異なってきます。
ほんとはそれぞれの障害に対するサポーターが必要だと思います。
養成講座といっても、そう簡単ではないかも知れません。
発達障害はもとより、精神関係の障害もそれぞれタイプによって対応が異なります。

僕自身もサポーターの必要性を感じます。
サポートする側でもあろうとすれば、尚更必要性を感じます。
障害を持つ人に、しっかりしたサポーター(=よき理解者)がついていれば、どんなにか心強いでしょう。
それぞれ、いろんなところで躓いたり、余計な苦労をしているはずです。
ほんとにサポートし合える社会になれば、誰もが自分らしく誇りを持って生きていけるのではないでしょうか。

当事者、それも限定されない当事者とサポーターによる、安心できる場所作りが急務だと思います。
そして、そのためにもサポーターを養成しないといけないですね。
それも、上からでなく、もっと底辺から。
サポーターは誰でもなれると思います。
その覚悟があって、その心を持っていれば。

僕自身は、更にもっと心の世界を探求していきたいと思っています。
大学の通信教育で学びながら、ピアサポートを仕事にできるといいですね。

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情動 = より深く激しい感情の動き

<情動>
僕らは感情を理解するのに苦労します。
自分の感情なら尚更です。
だから、感情が分からないと思うんですね、外の世界からは。

ほんとはちょっと違うんです。
外にある感情と、自分の中にある感情が上手く結びつかないんです。
僕らの中には、感情が溢れんばかりに駆け巡っています。
それは、感情というよりも、より深い処の情動です。

余りに激しく豊かな情動を、如何表現したらいいか分からないんです。
言葉にした途端、飛び出した言葉の陳腐さに落胆します。
時には、言葉を激しい情動が凌駕してしまい、
その情動の激流に呑まれて言葉は水没していきます。

僕らの中では喜びも怒りも悲しみも苦しみも、
全ての情動が今にも破裂しそうになっています。
外へ飛び出したくて堪らないのに出口が無いんです。
外から来た感情も、情動は瞬時に感じ取ります。
但し、想定外の情動には感覚がホワイトアウトしてしまいますが。

でもやっぱり、外側の情動と自分の中の情動は、
簡単には結びついてくれません。
きっと位相がずれているのかも知れません。
まるで、ちょっとだけ位相が違う世界に住んでいるみたいです。

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急にいろんなことが動き出しました

ここのところ、急にいろんなことが一度に動き出して、木の枝に引っかかっていたのが、束縛を逃れて川の流れに乗って、勢いよく流れ出したようです。
毎日のように新しい出会いがあり、紹介されて次々と出会いの輪が広がっていきます。
今までの停滞が嘘のようです。
毎日、日課を消化しきれずに大変です。
ただし、一日に何箇所も行かないようにしています。
一日に何箇所も行くと、最初に行った場所での記憶が大分消えてしまうようです。
一時記憶が心許ないので、一日一件と決めておかないと後で困ります。

動き出す時には、一度に動き始めるものですね。
意識的に休養を取ったり、逸る気持ちを抑えるようにしています。
何か決める時は、一日か二日は間を置く事など、自分の特性に振り回されないように、特に忙しい時ほど注意が必要です。

詩もたくさん溜まったままですが、明日にします。
書きたい事も山ほどありますが、後日に譲りたいと思います。
次は具体的な面白い話が書けそうです。

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今日の詩、久しぶりにピコの詩です

急にいろんな展開が動き出して、めまぐるしいほどです。
詳細は後日にします、日付も変わってしまうので。
今日のです。



<風のピコ>
ピコには不思議な所があります。
ピコの行く所では、必ず風が吹きます。
激しい突風で廻りを掻き乱してしまう時もあれば、
静かな風で知らない内に僅かな揺れを呼ぶ時もあります。

良い風が吹く時もあれば、
悪い風が吹く時もあります。
ピコ自身も気付かない所で、
何かが少しずつ変わってしまう事もあります。

ピコ自身が、きっと風なんでしょう。
何処に吹き付けるのか、
何処へ行こうとしているのか、
ピコにも分からないんですから。
それが、きっとピコなんですね。

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今日は、共感覚(シナスタジア)について

共感覚(シナスタジア)というのを聞いた事があると思いますが、共感(エンパシー)とは少し違います。
紛らわしい言葉で分かりづらいのですが、共感というのは相手の感情を理解する事が出来る事で、定型の人であれば普通に持っている能力で、特に共感力が強い人をエンパス(共感能力者)というようです。
共感力の弱い発達障害の僕のような人とは対極にあるともいえますが、エンパスは日本人の5人に1人とも言われています。
似た言葉にシンパシーがありますが、日本語に訳すと共鳴となります。
シンパシーは、日本に於いてはかなり曖昧な使われ方をされているようですので、余り詳しくは説明しませんが、共感と同じ意味合いの言葉として説明されている場合もあります。

さて、共感覚ですが、これは感覚の融合とも呼べる現象で、異なった感覚が同時に生じたり、共鳴したりする事とでも言えばいいでしょうか。
音や、味、或いは人の心などに色を感じたり、単色の中に複雑な色彩を感じたりする人もいれば、周囲にある物を音階で感じたり、もちろん、味覚などの他の感覚による共感覚もあれば、もっと特殊なケースも存在します。
かなり人によって違いがあり、発達障害を持つ人の中には共感覚を持っている人の割合が多いようです。
もちろん、共感覚を持っていても発達障害がある事にはなりません。
ドナ・ウィリアムズさんの持っている特殊な共感覚は、言葉を持たない自閉症の人には普通にある感覚のように思えます。
そればかりか、共感する事が苦手だと言われる自閉症の人には、少なからずこの感覚があるのではないかと思います。

この特殊な共感覚を、心の共感覚と勝手に命名しているのですが、僕にもかなり強くこの感覚があって、それは自分の心の壁を乗り越えて、相手の心と同期すると言うより、自分の中に相手の心が流れ込んできてしまうような感覚でしょうか。
自分の中に入ってきた相手の心(感情)を見て、同じ感情を感じるという事になるでしょうか。
言葉で説明するのはかなり大変なんですが、感じ取るのは深い感情(情動)ほどはっきりと伝わってきます。
共感とは全く異質のもので、共感はこちら側から相手の心を見ているようなものですが、心の共感覚はあちら側まで行って相手の心を見ているようなものです。
生きる事に絶望した人に、心の共感覚が働くと、全く同じ感情が自分の中に発生して途惑ったり混乱する事になります。
自分で制御できる訳ではないので、かなり危険な事もあります。
この共感覚が強く働くと、体調までもが同じようになってしまう事もあります。
人以外に心の共感覚で同化した方が楽なんですが、自然の中で生活しない限りは人への共感覚が殆どになります。

普通は誰かに対して共感覚が働くと疲れるし、負担がかなりあるのですが、同じ障害に限らず様々なメンタル面の障害を持った人が来るデイケアのような場所では、不思議と楽にこの共感覚が働きます。
恐らく、言葉を持たない自閉症の子供同士が意思の疎通を行っているのと同じ感覚になるのでしょう。
これは私見になりますが、こういった場合、相手も心の壁を低くしてくれるのかも知れません。
それで楽に心が行き来しているのかも知れません。
普通の社会の中では、誰もが心の壁を高くして、本心とは別の心を写す特製の鏡を使って、しっかり自分をガードしているのでしょうね。

ちょっと特殊な共感覚の話になってしまいましたが、余り知られていないのは、この感覚を強く持っている人たちの大半が言葉を持たない為かも知れません。
或いは、言葉を獲得するにつれ薄れていく事もあるかも知れません。
普通は消えていく筈の、既に退化してしまった筈の感覚かも知れませんね。

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心を閉じると重いけど、心を開くと軽くなるんだよね。

ここ暫く、いろんな事があって、その辛さから、つい心を半ば閉ざしていたようです。
その間は、殆どを書く気力も無く、出口を無くしたように心の中での卵が、ただ渦巻いていただけでした。
数日前になりますが、半ば閉ざしていた心を開いた途端、が次から次へと溢れるように噴き出してきました。
やっと出口を見つけたのでしょう。
心を閉ざしてしまうと、思いを外に出してやる事も出来ないんですね。
一度に書き写せないので、毎日少しずつブログに書いていきます。



<心の拠り所>
人にはね。
心の拠り所が必要なんだよ。
誰だって、みんなそうだと思うよ。
心の拠り所をたくさん作っておけば、
どんな時にも駆け込める所が出来るからね。

誰だって、辛い時や悲しい時はあるよね。
そういう時は、立ち止まったっていいじゃない。
怖く手前に進めない時は、安心だった時に戻って、
少し心を休めたっていいと思うよ。

そんな時、心の拠り所があれば随分楽になると思うよ。
そういう場所や、そういう人や、そういう物を今の内に見付けておこうよ。
そうすれば、心が折れそうな時もきっと支えてくれるよ。

そして、ゆっくり休んだら、
また歩き始めればいいじゃない。

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昨日、今日といろいろ…、

昨日と今日と、ほんとに新しい展開がいろいろあって、かなり疲れているようなので、詳細はいずれ。
一昨日からかなりのが生まれました。
毎日少しずつ紹介していこうと思います。


<でもね!>
生きていると厭な事って沢山あるよね。
幾つも幾つも、厭な事が続けざまに追いかけてくる時もあるよね。
なんでもないような些細な事でも、とても深く傷ついてしまうから。
だから、とっても辛いよね。
傷ついた心は簡単には癒えないから、長い長い時間辛い思いが続いて。
そういう時って、どんどん苦しくなって、
その苦しみの深みから抜け出せなくなる事もあるよね。
辛くて辛くて、消えてしまいたくなる時だってあるよね。

でもね。
厭な事が続いた後には、いい事だって来るんだよ。
もうちょっとだけ待ってれば、次はいいことがやってくる番かも知れないよ。
だから、待ってみようよ、もうちょっとだけ。
諦めないでさ。

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たまには新しい詩を載せないと、ですね。

ここ数日、新しいを載せてなかったので、を書くことをやめてしまったと思われても…そんなことはありません。
最近は丁度いいペースでが生まれています。
余りハイペースだと、の形を整えたり(ノートに書き落としたには余り手を加えないのですが、言葉の入れ替えやバランスを整えたり、PDFに変換してイラレで読み込んだところへ切り絵を配置して、集用に調整したりといった一連の作業は割りと時間が掛かります。)するのが間に合いません。
ノートに書くときは数分なんですけど、その後の方が結構大変なんです。

今日は、最近書いた詩を載せます。



<伝えたい事>
僕には伝えたいことがいつも頭の中でいっぱいになっている。
外へ飛び出そうとあっちへぶつかりこっちへぶつかり走り回っている。
頭の中の幾つもの世界で、いろんな物やいろんな事が駆け巡っている。
そして、それを誰かに伝えたくて堪らなくなる。

でも、外へ出た途端に乾燥無味な言葉に置き換わってしまい、
沢山の情報のほんの少ししか伝えられない。
もっともっと伝えたいことがあるのに、
伝えることが出来るのは、その内のほんの一滴。
残りは途中で砕けて何処かへ流れて行ってしまう。

いつも伝えたいことがこんなに沢山あるのに、
唯々もどかしい。
こんなに、こんなに、いろんなことを伝えたいのに。

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内なる感情と外側の感情(ASDとアレキシサイミア)

アスペルガーなどの自閉症スペクトラムと感情(アレキシサイミア:失感情症)の問題について、外側(定型サイド)と内側(障害サイド)では見方が違うように感じます。
一般(定型サイド)には、自閉症スペクトラムなどの障害を持つ人は、相手の気持ち(感情)を理解できないとか、自分自身の感情すら理解できないとまで言い切っているのを見かけた事があります。
外側(定型サイド)からみれば、そうとしか見えないのかも知れません。
そういった感情を理解する能力が全く無いかのような表現には憤慨します。
さらには感情が殆ど無いと思われているかも知れません。
ASD(自閉症スペクトラム:以下ASDと略記します)にも、かなり個人差があります。
感情表現が苦手で、殆ど感情を表現しないタイプの人もいます。

しかし、内側から実際に起こっていることを伝える機会が少ないので、誤解が事実のようになってしまっているのでしょう。
ASDは、感情が無いわけではもちろんありません。
感情が少ないどころか、僕ら自身の内側では感情、さらにはもっと激しい感情である情動が溢れかえっています。
中で渦巻いて外に飛び出したがっているのです。
でも、その感情を表現しようとした途端、溢れ出して来た豊かで広大な感情に比べて、出てきた言葉の余りの陳腐さに落胆します。
外の世界にある感情と、内なる世界の感情が余りに違っていて、全く結びつかないんです。
的確に表現できるほどの豊富な表現に結びつけることが出来ない、そんな苛立ちを感じています。
外から入ってきた感情(相手の気持ち)も、内側にある感情と一致させて理解することが容易でありません。
何かがすっきりしないんです。
他の国の言葉を、懸命に翻訳しているようなものかも知れません。
何度も繰り返して、録画テープを回しては少しずつ翻訳する、そういった感じです。
自分自身の感情は、いつも後回しにせざるを得ません。
自分の感情は、翻訳作業が終わった後に取り掛かるプロセスになっているような気がしますが、ここのところは未だよく分からない部分でもあります。
自分の感情の場合でも、内側から噴き出してくる感情と、外側(他者)からの刺激によって発生する感情とでは何かが違っていて、結び付けて理解するのが容易でないのかも知れません。
あるいは、感情そのものと、感情を頭で分析して理解するプロセスのどこかに障壁があって、ストレートに理解する事を妨げているのかも知れません。

唯一つ伝えておきたい事は、僕らのようなASDの内側には、表現する事さえできない感情の世界が広がっていて、外に出て行こうと足掻いているのにその方法が見つからないんです。


あとで、少し詩を載せたいと思いますが…。

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変わる事、変わらない事、発達障害でも

今日はメンタルクリニックでカウンセリングでした。
実はいろんな事があり、メンタルクリニックへ行くのをためらっていました。
もしこのまま行く事が出来なくなったらと思うと、不安と悲しさに溺れそうになりました。
でも、自分の中で何かが、以前の自分では考えられなかった何かが変わっていて、その事に気付いたことで、思い切ってカウンセリングに行く気持ちになりました。

発達障害の特有の症状と言うのは、脳の発達段階での偏りに因るものです。
即ち凸凹な発達をしたせいで、プラス面とマイナス面に突出した部分が生じてしまう訳です。
実際に生き難さを感じたり、社会生活に対して適応障害を起こしたり、二次障害に苦しんだりするのは、マイナス面が強く出てしまった場合に顕著になります。
感覚的な特異性も実生活に影響しますが、目に見えない部分のほうが、廻りから気づかれない分、余計に心理的な負担となって本人に跳ね返ってきます。
アスペルガーに特有と言われる認知の歪みは、容易にコントロール出来るものでないだけに、本人にとっては辛いものです。

発達障害自体は、現在の医学では治る事がありません。
また、発達障害自体、そして発達障害に起因する特徴を含めて、その全てがその人自身の一部なので、治すという事の意味があるのかどうか、疑問に思います。
それは今後の課題でしょうが、現在に於いてはどうやって生き難さを解消していけるかが重要な事だと思います。
治らないからと諦める必要は無い事を、最近気付く事が多くなりました。
治らなくても、変わることは出来ます。

何が原因だったのか、如何すればいいかという事が分かってくると、短期間で変わる事もできます。
確かに、長期に亘って少しずつでないと変われない事もあります。
それでも、確実に前に進む事は出来ます。
ただし、発達障害である事を自覚しないと何も始まりませんが…。

認知の歪みのような問題は、長年の思考の癖が災いしていて、大人になってからでは簡単には修正して行く事が出来ないのは実感しています。
それでも、何かの切っ掛けで気付いた事によって、自然と自分の中で変わっていく事もあります。
発達障害である事を自覚して、答えを探し続ければ、いつかは答えも見つかります。

アスペルガーは特に人間関係で悩む事が非常に多いのですが、同時に孤独感を感じていて、一人でいる辛さも感じている人が多いと思います。
僕自身もそういった感覚は特に強いです。
人に対する位置付け(或いは好き嫌い)が極端に走るので、友人を作り難いのも確かで、僕自身殆ど友人はいません。
一度友人になっても、些細な事から信頼が崩れて、そうなってしまうと何の関心も無くなってしまいます。
どれだけ親しい友人であっても、一度信頼出来なくなってしまうと、すれ違っても見向きすらしません。
まるで、視界に入ってさえ来ないかの様にです。
こういうのを 「人間関係のリセット」 と何処かのブログで見かけましたが、的を得た言い方です。
今までは、本当に人間関係のリセットをしてきました。
それが、少しずつですが、自分の中で変わってきているようです。
リセットから保留になったのでしょう。
相手に対する感情そのものが全て消滅していたのが、相手へのプラスの感情が残るようになってきた事に驚いています。
簡単に言うと、喧嘩したら二度と仲直り出来なかったのが、仲直り出来る事を望むようになったと言う事です。

普通ならごく当たり前の事ですが、そのごく当たり前の事が出来るようになるのも大変な事なのです。
そういった、一つ一つの積み重ねしかないですし、自分に合った独自の手法を見つけて、自分なりの対処が出来るようになる迄には可也の年月が掛かるかも知れません。
また、認知の歪みを一つ一つ解決していくのも、可也大変な事かも知れません。
生き辛さに苦しまずに生きていくためには、一つ一つ答えを見つけていくしかないのです。
ただし、変えたくない所は、無理に変えて廻りに合わせる必要は無いと思います。
変えずにいてもいい事だってあると思いますし、廻りに全て合わせて個性を無くしてしまったら、それは見知らぬ他人になってしまうようなものです。

それに、見落とされがちなプラスの要素を、ちゃんと認めて上げないと可哀想です。
それこそ、発達障害の贈り物なんだと思います。
マイナスな要素は、その贈り物に勝手に付いて来てしまったおまけだと思えば、少しは気が楽になります。


今日は、思い切ってカウンセリングに行ってきたんですが、認知の歪みがネガティブな想像を掻き立ててしまっていたのかも知れません。
どんな時も、メンタルクリニックでは温かく迎え入れてくれます。
どれほど落ち込んだ時も、人生に落胆して嫌になった時も、変わる事無くいつでもとても温かく迎えてくれます。
いつでも安心できる場所になっています。
そのことを、改めて実感し、ホッと安心すると共に、このような恵まれた場所に巡り会った事に感謝する思いです。
カウンセリングでは、じっくりといろんな話をします。
その中で、いろんな事に気付く切っ掛けを得たり、解決への道筋が見えてきたりします。
カウンセリングの先生には、いつも大きな安心感を与えてもらっています。
自覚して以来、いろんな人と会って話す機会がありましたが、寄り添う心を持った人は、そう多くはいません。
どれほど知識があっても、寄り添う心を持っていない人もいます。
カウンセリングの先生は、寄り添う心を持った数少ない一人であり、澄んだ心に安心感を覚えます。

今日のカウンセリングを一度は躊躇ったのに、何とか行って来れたのも、しっかりした信頼を持てたからだと思います。
僕にとっては、信頼する事自体がそう簡単な事ではないので、信頼できると言うだけでも貴重な事です。
安心できる場所、信頼できる人が多ければ、それが心の拠り所になります。
このメンタルクリニックに巡り会える幸運に恵まれなければ、いったいどうなっていただろうかと考えると、とても怖くなります。


今日も、以前に書いたを載せます。(一つは季節外れになってしまいましたが)



<心の冬>
窓の外は 春です。
心の中は 冬です。
季節はずれの 雪が舞っています。
どんよりと 曇った空から、
冷たい雪が 落ちてきます。

それでも、
いつか、
きっと いつか、
雪も止(や)んで、
心も 春が来るでしょう。

だから、
待ちましょう。
そう遠くない、
その日を、
楽しみに、
待ちましょう。



<ちゃんと見て!>
人は、一人では生きていけないって言うけど。
僕らは 孤独だと、
生きることを 諦めてしまうんだ。

人と 上手に付き合えないのに、
それでも、
人恋しくなってしまうんだ。

愚かで、
純粋で、
生きることに不器用で、
生きることに真剣で、
繊細で傷つきやすく、
感情的で、
単純で、
一途で、
子供のようで、
すぐ調子に乗ってしまう。

ちょっと変わってるけど、
それが僕らなんだ。

それだけなのにね。
どうして、目を背(そむ)けるんだろう。
どうして、ちゃんと見てくれないんだろう。

悲しいよ。
どうしようもなく、悲しいよ。

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もうじき、今までの詩を全部含めた詩集が出来ます

これまでのを全部入れて、集第1巻の最終版を作ろうと思います。
あと数日はそちらを優先しようと思うので、新しいはしばらくお待ち下さい。
ノートの方へはぼちぼち書いていきますが、ブログに書き写すのは少し待って下さい。

今日は、以前に書いてブログに載せてないを。



<わかり合うこと>
同じ 人間なのにね。
互いに わかり合えないなんて。

なんて 心が狭(せま)いんだろう。
なんて 哀(かな)しいんだろう。
違うことを 赦(ゆる)そうとしなかったり、怖(こわ)がったり。

受け容れるより、拒絶(きょぜつ)する方が 簡単なのかな。
そうかも知れない。
無理して留(とど)まるより、跳(と)び出してしまった方が 楽なのかな。
そうかも知れない。

でも、
互いに そっぽを向いても、何も始まらないよ。
無視して、お互いに 居ないものと思えば 楽だよね。
でも、それでいいの。

自分と向き合って、
それから、互いに向き合って。
何度だって やり直せるんだから。
ね。



<孤独なピコ>
ピコは 孤独です。
ピコは 人とちょっと違うから、いつも 一人ぼっちです。

ピコは いつも隅っこに居ます。
光や音が 後ろからは襲(おそ)って来ないから、
隅っこに居ると ちょっと安心します。

ピコには いろんな音が 一度に聞こえてきます。
川の水が サワサワと流れる音、
遠くで泣く 小さな子供の声、
どこから聞こえてくるのか分からない 救急車のサイレン。
ぜんぶの方向から いっぺんに音が押し寄せます。
あまりにも たくさんの音に、
ピコは 怖くてたまらなくなります。

ピコの見る世界は とても不思議な世界です。
葉っぱの上から、
黄色や赤や紫の光が コロコロと転がり落ちたり、
もわもわっと漂(ただよ)って 他の色と交じり合ったりします。
いろんな音が いろんな色を帯(お)びて、
ピコの廻(まわ)りを ひらひらと跳(と)び廻(めぐ)っています。

ピコには 人の心も色が付いて見えます。
うす黄色い心の人、
深い群青(ぐんじょう)色の心の人、
淡い赤紫に 薄墨(うすずみ)色の縞(しま)模様が入った心の人、
ピコには 人の心は色でしか分かりません。
ピコは 面白いものを見つけると、
他の周(まわ)りの景色が 視界から逃げていきます。
道ばたに咲く 花のおしべを見つけても、
ピコは それが花だとは気付きません。
ピコにとっては、
勝手に蠢(うごめ)いている おしべの虫の群れです。

ピコは いつも一人で遊んでいます。
水面のキラキラや、
空のふわふわ雲や、
蜘蛛(くも)の巣の宝石が、ピコの友達です。

ピコは なんでも人と同じようにはできません。
ピコには ピコにとって大事なことがたくさんあって、
他の人には それが見えません。
いくら 一生懸命がんばっても、
他の人と おんなじにはできないので、
ピコは とてもつらくなります。

ピコは 時々、
とても寂(さび)しくなって たまらなくなります。
ピコは 一人ぼっちでいたくありません。
でも、いつも一人ぼっちになってしまいます。
そんな時、
ピコは とても悲しくなります。
悲しくて、消えてしまいたくなります。
川の水に融(と)けて、
流れていって しまえれば いいのにと思います。

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