- 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録)

切り絵、パステル画、詩、書、発達障害(自閉症スペクトラム・ADHDなど)、愛着障害(アダルトチルドレン)、解離に関するもの、その他。 暫くは詩が中心です。

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愛着障害・アダルトチルドレン(AC)について

以前にも少し書きましたが、発達障害を自覚したのは半年ほど前になります。
先日、発達障害や精神障害に関する検査を終えて、その検査結果によると、発達障害を全体的に含んでいるようです。
発達障害の詳細は、また後日という事にして、今日は愛着障害、所謂アダルトチルドレン(略してAC)について…。

ACに気付いたのは、ごく最近です。
共依存があることに気付いて、そこからです。
それまでは、愛着障害もACも共依存も、名称だけは知っていましたが、内容は全く無頓着でいました。
あまり関係ないような気がして、気に留めてなかったんですね。

それが、自分の感情に違和感を感じて、ネットでいつものように調べ回る内に、ACと共依存に行き当たりました。
自分に共依存があることに気付いて、当初はかなりショックでした。
発達障害を自覚した時とは、全く対称的に…。
発達障害の時は、自覚することでホッと安心したんですが、共依存の時はそうはいきませんでした。

ピアサポートに関心を持ち、それを生きがいのようにさえ感じ始めていたのですが、それら全てが共依存に縁る感情がそうさせていたことに気付き、全てが、漸く新しく見つけ出したように思っていた人生そのものが、砂上の楼閣のように瞬く間に崩れ落ちて、その後には空っぽになった自分しか居ませんでした。
虚しさが心をさらい、空虚な空間に孤独に立ち尽くす自分がいるだけでした。
今まで認めることすら出来なかった自分自身、自己否定の対象でしかなかった自分に対して、発達障害を自覚した事で、自分を漸く認めて、自分自身を信じてみようと思えるようになっていたのが、そんな思いが全て消え去りました。
再び、自分が信じられない。
自己否定の再燃。
自分の中の自分自身がなくなってしまった。 そう感じていました。

でも、逸れもまた、真正面から自分と向き合ったことの軋轢だったようです。
共依存に気付いたその時の環境が、自分から逃げずに、自分自身と向き合う機会を与えて貰った事で、ほんとの自分を見つける段取りを整えて貰ったようです。
自分の感情を否定したり、無視したりせずに、其のまま受け止めて向き合うことで始めて、共依存というものに気付けた訳です。
自分と向き合う事を拒絶していれば…、自己否定に至るほどの葛藤を恐れて逃げ出していれば…、気付きの機会を逃していたでしょう。
気付かなければ、この先ずっと、ほんとの自分がどうしても分からずに迷い続けたでしょう。

自分でも自分の事が理解できない。
何故、そうしてしまうのか?
何故、今迄ずっと、自分がどこにも居ない生き方をしてきたのか?
自分で望むこと生き方を、自分で否定してしまって来たのは何故なのか?
廻りの事ばかり気にして、自分が存在していないような人生。
自分が分からない。
自分を信じられない。
自分自身への執着の無さ。
そんな、発達障害だけでは納得がいかない自分への違和感。

そういった不安を抱えながら、遣り切れない自分を放置して、どうしていいか分からずに居ただけだと思います。
それらが、ACに起因していたとは…。
ACの部分が、発達障害の一部を覆い隠して、自分自身を余計分からなくさせていたようです。

検査の結果が出た事が一つの契機となって、不安が薄れ、何を見つければいいかが見えてきたような気がします。
それが、インナーチャイルドという事だと思いますが、認知行動療法を始めたことで、自動思考に気付いたことも、不安を和らげる助けになりました。
AC(アダルトチルドレン)は、確かに厄介です。
ですが、全てが悪い面ばかりじゃなくて、AC の良い面だってあると思います。
発達障害ならではの、ちょっと風変わりな能力(過集中のような)と同じように…。

悲観的になってばかりいても、生きていけません。
見方を変えて、自分自身をコントロールできるようになれば、自分に振り廻されるのではなく、自分にしかない特異なものを強みに変えていけるんじゃないか。 そう、思います。
先ずは、自分探しの旅からですね。

今日はこの辺で…。


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混沌の狭間

此処に居るのは誰?
偽物の記憶と偽物の言動に彩られた紛い物?
自分の振りをしている別の自分。
それとも、幻覚の自分?

振りをしている自分に騙され、
何処までが真実か分からず、
自分の言動が信じられず、
偽りの自分を否定したくなって、
現実と非現実の混沌の世界に追いやってしまう。

偽りを否定しながら、
偽りに支配され、
夢と幻覚と空想とを、
現実との混沌の世界に溶け込ませてしまう。

正気と狂気の境に、
大きく広がっていた狭間の海が干からびて、
次第に小さくなり、
正気と狂気の混沌が一つに繋がって、
幻覚が現実に取って代わる世界が出現しようとしている。

時々正気、時々狂気。
それとも、狂気が正気?
狂気になって消えた記憶が、
狂気が正気の狂気になって、
時々記憶が戻ってくる。

戻ってきた記憶が消えていったり…。
時々消えた振りをしたり…、
振りに気付いた途端に混沌の境界が融けて、
入り乱れる現実と非現実。

耳鳴りと共に、空間に消える記憶の流砂。
それすらも、偽りの非現実か、
夢の幻覚か、
空想の中の現実か?

振りをする自分への存在否定。
振りを消そうとして、
自分自身を消してしまう心の消しゴム。

狂気の先の狂気の魅力と、
狂気への憧れ…、
それとも自虐の狂喜?
狂気の振りをする狂気の狂喜。

分裂していく狂気の連鎖。
人格をもてあそぶ、狂気の人格。
狂気を写し取り、記憶の底に封じ込めた保管庫。
勝手に記憶の保管庫の鍵を開け、
当たり構わず食い破って頭を擡げる狂気の化身。

正気と狂気の狭間を彷徨うことを、
何処かで見ていて手を叩いて喜ぶ、
自虐と消滅願望と破滅の3つの人格群。

自虐が狂気を煽り、
狂気が自虐を狂喜させ、
狂気が破滅願望を餌にして膨れ上がり、
消滅願望はそのまま消しゴムになって、
自分自身を消そうとする…。

元は纏まっていた人格群。
互いを否定し、反発し合う内に、
どんどん遠ざかって孤立し、
分化が進んでいく。

その結果、次々と誕生する新人格たち。
合成され、複写され、
小道具のように使ってもてあそぶ狂気に操られ、
糸の先の操り人形と化した人格たち。

次々と占領されて、居場所がなくなっていく。
居場所を奪ったのは誰。
居場所を奪われたのは誰。


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からっぽの抜け殻

どれが自分なのか分からない。
何処に居るのか分からない。

周りに別の自分を作って投影させ。
いつも人の目を気にして、
投影される姿を周りに合わせて作り変え。
その残留物の人格が増え続け。
本来の自分がどんなだったかも、
今ではもう思い出せない。

AC の殻で自分を覆い隠し、
自分自身ですら欺かれてきた。
いいえ、今も欺かれ続けているのか。

檻の中で窒息しそうになっていた自分自身を、
漸く解放できたように思ったのも錯覚だったのか?
結局、また檻の中に逃げ込んでしまったのか?
外の世界が眩し過ぎて…。

それとも、檻の中で、外の世界に飛び出した夢を見ているだけなのか?
それとも、檻の中にすら誰も居なかったのか?
夢なのか。
空想の中にいるのか。
全てが幻覚なのか。
現実が何処かに在るのか。

自分が誰なのか。
そう言っているのは誰なのか。
何れかの世界の何処かの壁に答えが書いてあるんだろうか?
答えの有りかを探す手掛かりの矢印でもあるんだろうか?
でも、他の自分がその矢印を消しゴムで消しているかも知れない。
手掛かりを隠そうとしているのは誰なんだろう。

こうしている間に、何人もの分身の人格が入れ替わる。
何を言いたかったのかさえ、何処かに霧となって消えていく。
最後に残るのは、からっぽの抜け殻。


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消しゴムお化け

早く寝ないと、消しゴムお化けがやってくるよ。
消しゴムお化けの両手は、大きな、大きな、すごく大きな消しゴムでね。
さわったものを、何でも消しちゃうんだ。

消しゴムお化けがやってきたら、どこかにかくれないといけないよ。
もしも見つかったら、大きな消しゴムで消されちゃうんだから。
消されたら、なくなっちゃうんだよ。

消しゴムお化けに追いかけられたら、鏡の向こうに逃げるんだよ。
もしも鏡が見つからなかったら、とくべつなとびらを探してごらん。
運がよければ見つかるかもしれないよ。

そのとびらが、向こうの世界につながっていたら、
思いきって向こうの世界に飛びこむんだよ。
そしたら、消しゴムお化けは追ってこないからね。

消しゴムお化けは、向こうの世界にいけないんだよ。
とびらの先に足がふれたら、消しゴムお化けはとけて消えちゃうからね。
だから、扉の向こうには消しゴムお化けがいないんだよ。

くれぐれも、消しゴムお化けに会わないようにしてね。
もしも、消しゴムお化けに見つかっちゃったら、
もう扉の向こうしか行くところがないんだからね。


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扉の向こうから

ここは何処?
見たことも聞いたことも無い世界。
堅く閉ざされた扉の向こうの世界。

堅く堅く閉ざされた 「次元の扉」 が開く時、
扉の向こうの不思議な世界を覗き見る事が出来る。
時折、扉の向こうから彼らが訪れる。
ひょっとしたら、彼らに遭った事があるかも知れないね。

不思議な不思議な彼らの世界。
空には川が流れ、エメラルドの棘の生えた、
数十枚の半透明な翼を付けた大きな空鯨が、
空の川を悠々と泳いでいる。

色とりどりの十二枚の翅を羽ばたかせて、
水蝶が川の中から飛び出して空を飛びまわり、
また川に飛び込んでいく。

突然、山火事の火の中から、
不死鳥のように飛び出してくる、
六枚翅の火トンボ。
翅の先で青く灯る神秘的な光が消える頃、
再び火の中に飛び込んで姿を消す。
そして、暫くすると新たな命を得て、
勢いよく火の中から躍り出る。

彼方此方を飛び廻る跳びキノコ。
白い跳びキノコ。
赤い跳びキノコ。
まだらの跳びキノコ。
そして、縞模様の跳びキノコも。

日が昇ると空高く飛び立つ偽鳥。
鳥の姿で、青緑色の空を自在に飛び廻る。
その真の姿を知るものはいない。
日が沈むと霧のように霧散したり、
水面に飛び込むように、地面に飛び込んで姿を消したり。

黄金色に煌めく小さな丘の上では、
ホラ吹き貝が大声で嘘ばかりを捲くし立てる。

小さな翼を付けて、丘から丘へ飛び廻って遊んでいる、
性別を持たないその世界の妖精の子供。
その子の名前はポノン。
タツノオトシゴに似た、六つ目のチャイルドドラゴンが、
ポノンの背中でいつまでも戯れている。

石も木も意識を持ち、何もかもが生きている。
大きな石も小さな石も、10本の足を地面に下ろし、
ザクッ、ザクッと地面をゆっくり、ゆっくり旅をし続ける。
思いのままに、気の向くままに、
思い思いの方角へ。
終わりの無い旅。
始まりの無い旅。

木として生きることを選択した木。
地に脚を深く突き刺し、隣の木と繋がって会話をしている。
気が向くと脚を引き抜き、ザーッ、ズン、ザーッと、
地を揺るがして、別の土地を目指して旅をする。

別の生き方を選択した木。
自らの意思で楽器に成る事を選んだ木。
細い枝上の腕を伸ばし、自ら音を奏でるチェロの木。
数本の撥状の腕と足で、
ットトン、トン、トンと軽妙な音を打ち出す、
パーカッションの木。
楽しげに踊り、奏で、戯れる。

空には双子の 「片割れ月」。
青い光を放つ 「片割れ月」 と、赤い光を放つ 「片割れ月」。
空を流れる川は、双子の 「片割れ月」 を満たす、
双子の 「生まれの海」 へと流れ落ちる。

双子の 「生まれの海」 には無数の卵が息づいている。
石の卵、木の卵、そして、水蝶やチャイルドドラゴンの卵も。
いつの日か生まれ出る日を待ち望みながら。

それぞれの 「生まれの海」 で卵から孵ると、
川を泳いで 「育ちの惑星」 に辿り着き、そこに棲み付く。
そうやって、川の中と空とを行き来する舞い魚や、
風に乗って舞い踊る傘クラゲも、
「育ちの惑星」 を自在に飛び廻る。


青い 「片割れ月」 の 「生まれの海」 では、
青い卵から孵ったチャイルドドラゴンが、
やがて 「育ちの惑星」 で大きく成長して、
透明な鱗で覆われ、時折青い光を放つ、
大きな竜翼を生やした碧い飛竜になる。
大きな爪で木に摑まり、咆哮を上げながら、
六つの時の眼で、全ての時を居ながらにして旅をする。
時を知り、時を憂い、時を旅する六つの眼。
そして、地を蹴って飛び立ち、
大空を駆け巡りながら氷の炎を吐き続ける。
その氷は溶けて川になり、「生まれの海」 まで流れていく。

赤い 「片割れ月」 の 「生まれの海」 では、
赤い卵から孵ったチャイルドドラゴンが、
八枚の小さな竜翼を生やした、双頭の紅い海竜になる。
黒ダイヤのように暗く輝く一つの眼は、
見るものを幻の世界に引き込む。
そして、双頭から緋色の熱い火流を吐いて、
「生まれの海」 を暖めながら、
一生を 「生まれの海」 の中で生き続ける。

争いを知らない、命を奪い合う事の無い世界。
自由に生き、戯れ、やがて…。
生きた道筋に満足し、残す思いも無くなると、
フーッと、背景に溶け込むように霧となって消えていく。
彼らの世界に死は無い。
ただ、消えて居なくなるだけ。
生き生きとした、でも生も死も無い世界。

遠い遠い昔、迷い星に引き裂かれた月は、
二つの 「片割れ月」 になった。
その時に、時空の裂け目が生まれ、
二つの 「片割れ月」 に挟まれた 「次元の扉」 が出現した。

双子の 「片割れ月」 の青い光と赤い光が輝きを増し、
やがて二つの光が交じり合って眩しく閃光を放つ時、
双子の 「片割れ月」 の狭間の暗黒の次元空間に浮かぶ、
堅く堅く閉ざされていた 「次元の扉」 は、
一時、束の間の 「開きの時」 を迎える。

グォーと轟音を轟かせて開かれた 「次元の扉」。
好奇心に溢れた扉の向こうの生き物たちは、
開かれた扉を通って、見た事の無い世界へ旅に出る。
帰りの切符が保障されない、戻れないかも知れない旅に。
それでも、扉を通って未知の世界へ。

「開きの時」 が終わると、再び堅く堅く扉を閉ざす。
帰れなかった者を残して、永劫の 「沈黙の時」 を迎える。
今も 「次元の扉」 の向こうで、彼らは生き、そして消えていく。
いつの日か、再び 「次元の扉」 が開く日を待ち望みながら。

閉じてしまった 「次元の扉」 に阻まれて、
この世界に留まった彼らの仲間が、
帰れる日が来る事を諦め切れずに、
今もそこら辺を彷徨っているかも知れないね。



というよりも…。 これは、ロールシャッハ・テストを受けた時の、一枚の絵を見てイメージが膨らみ作り上げた世界です。


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感受性と共感できないことの関連性

どうも、発達障害があると共感が殆ど出来ないと思われているようですが、はたして如何なんでしょうか。
以前にも、少しこの話題に触れたと思いますが、9.11 のあの惨事や、3.11 のあの震災の時に、何も感じる事が出来なかったことを覚えています。
少し前に、葬式躁病という状態になって、その時は、事実(母の死)を受け止め切れずに、全く逆の反応を引き起こした訳ですが、一度に膨大な情報が押し寄せた時などは、感覚が麻痺したようになりパニックになる事もあります。

喜怒哀楽の強い感情や、膨大な情報に、正常な感覚を保てなくなるんじゃないかと思います。
悲惨な出来事をニュースで見た時に、何も感じなくなるのは、感情が無いのではなく、押し寄せる感情の渦に感覚が麻痺してしまうんじゃないでしょうか。
普段でも、身の回りの情報を取捨選択する事が出来ず、全ての情報を受け取ってしまうので、聞き取れなかったり、パニックになったりする事は日常的にあります。
情報量そのものが多くなると、受け入れきれる限界をすぐに超えてしまうのに、そこに強い感情が加わった時には、対処出来なくなって感覚を閉ざしてしまうのかも知れません。

日常的な共感という事についても、話したり聞いたりといった事に注意を削がれて、感情を汲み取れないという事も一因ではあります。
感情そのものが、内面で自覚する感情と、外側の感情が微妙に食い違って、ストレートに伝わらないという事も一因ではあります。
それでも、自分自身のものにしろ、相手のものにしろ、感情を受け取ってはいて、後になって時間と共に鮮明に浮かび上がってきます。
ただ、そんなに時間が経ってからでは役に立たない事が多いですが…。
感情を上手く受け取れずに、共感が上手く出来ない事の要因に、感情の情報量が増加すると、感覚が麻痺するのと同じような現象が起きて、感じてはいてもそれを見る事が出来ない、何なのかを識別できない状態があるんじゃないかと思います。
感受性が強すぎて、より多くの情報を受け取ってしまい、処理するテーブルからすぐに溢れて、処理し切れなくなってしまう。
そんな事が起きているのかも知れません。
言い方を変えると、共感し過ぎて共感出来ないのかも知れません。

そう考えていくと、他の事も納得がいきます。
敏感さと鈍感さの共存。
一部を麻痺させたり、鈍感にする事で、故障しないように均衡を保っているのかも、などと思ったりします。
以前は、今ほど共感できないことは無かったように思います。
感覚・感受性が以前より強くなっているようで、たぶん、他の表面化していなかった要素と同じで、隠れていた特性が強くなっているようです。
そのことで、つまり、感受性が強くなり過ぎた事で、共感する事にも影響して、情報過多で麻痺して共感が妨げられたり、感受性の強さで過敏に受け取った刺激に、感情が振り回されてしまったりするようです。

自閉症スペクトラムの特徴的な感覚の過敏さが、常に過剰な感情に晒され続けて、麻痺させる事で自分を保っているようにも思えます。
聞き取る事の困難さが、聞えないという事ではなく聞こえ過ぎる、フィルタリング出来ない事で受け取る情報量が多過ぎる為に、聞こえた情報を処理出来ないのと同じじゃないかと思う訳です。
むしろ、感受性が強すぎる事が、共感を難しくする主因かも知れませんね。
感情を感じ過ぎて、多量の感情の量に、それを識別したり認識したりする事が難しくなる。
そういう事じゃないでしょうか。

今日は、ちょっと気が付いた事を…。


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あわれなかえる

おうちはどこでしょ。
どっちでしょ。
かえるみちがわからないの。

わたしはどこのだれなんでしょ。
わすれておもいだせないの。

いつからここにいるんでしょ。
いつまでここにいるんでしょ。
どうしてここにいるのかしら。

どこへいけばいいんでしょ。
いくとこなんてあるのかしら。

おうちがどこかわからないの。
どこへかえればいいんでしょ。
かえるとこなんてあるのかしら。

そのうちみんなわすれるの。
そうしてずっとただようの。


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老衰死、最期を看取ること

NHKスペシャルで、「老衰死 穏やかな最後を迎えるには」 が放送されて、録画で見ました。
つい最近、母を亡くしたこともあり、見入ってしまいました。

母が最後にどうやって息を引き取ったのか、実は分かりません。
最後を看取れなかったことは、今でも心に悔いを残しています。
その瞬間を看取ることで、近親の死という衝撃的な事実を受け止める準備が出来るんじゃないかと思います。
そういう意味では、最後を看取れなかったことで、死というものを受け止める準備が出来ず、今だに受け止め切れていないのかも知れません。
少なくとも、その時点では起こったことの意味を理解できず、受け止めることを全て拒否していたと思います。

最後の瞬間を看取るという過程を通過することで、事実を受け止める準備が出来て、もう居ないんだという事を受け入れることが出来るのかも知れません。
気が付いた時にはもうそこに居なかったという事実。
大切な瞬間を通らずに終えてしまったことで、別れが出来なかったという悔いが残り続けるようです。

最後を看取るということは、死を受け入れる準備のために、死を受け止められずに途惑うことを避けるために、とても大切なことだったんですね。
悔いを残すような映像の記憶が、薄れることなくずっと残り続けることで、自分を責めてしまう自虐ゲームが中々終わらないようです。

もしも、最後をちゃんと看取っていたら、如何だったんでしょう。
今となっては、分かりませんが…。

ちょっと、そんなことを考えて塞ぎ込んでしまいました。(いつもの事ですが)

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パステル画をスキャンしたので…

少し前に、一部を紹介しましたが、スキャナで取り込んだので、今までに描いたものを纏めてアップしました。
遊びで描いたパステル画です。
パステルで描いたことはなかったので、色々勝手に遣ってみました。
スプレーで固めると少し暗くなってしまいましたが…。

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パステル0011_convert_20150920202824  パステル0012_convert_20150920202853

パステル0013_convert_20150920202933  パステル0014_convert_20150920202958

パステル0015_convert_20150920203032  パステル0016_convert_20150920203055

色鉛筆0001_convert_20150920203217  色鉛筆0002_convert_20150920203245


前に載せたものと一部重複しています。
最後の二つは色鉛筆画です。

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検査結果を聞きました。

先日、検査の結果を聞いてきて少し安心しました。

発達系の障害の他に、愛着障害もあるようですが、いずれにしても、以前にも書いたように、一つの特異な特徴を持った発達傾向の、其々の側面を見ているように思います。
どの側面が顕著に見えるかによって、いろんな障害名が付けられたりするんじゃないかと思います。

成人知能検査では、IQ125で、言語性と動作性のIQに余り開きは無く、独特な感覚や特別な手法が、廻りとの不適応を呼んでいるようです。
以前はずっと、IQが結構低いと思っていたので、正式な検査でも割と高いIQが出たのに少々驚きました。(ネット上のIQテストは幾つもやってみて、ある程度数値が出ましたが当てにならないのではと思っていたので…)
廻りで思われるほど、バカでもなかったようです。
少しは自信に繋がるといいですが…。

詩を書いたり文章を書いたりする所と、切り絵やパステル画のようなアートに対するものが、ちょうど言語性と動作性の中に含まれていて、不思議とバランスが取れているようです。
社会との不適応感が強いのは、個性的過ぎる感覚や捉え方が、一般的な範疇を逸脱している軋轢のようなもののようです。
個性的過ぎて、と考えればいいのかも知れません。

たぶん、愛着障害・AC の影響は大きいかも知れません。
自己肯定の低さや、自己認識のずれ、自虐的なところなどは、決して良い方向には働きません。

今、認知行動療法を自分でもセルフヘルプとして学びながら、指導を受けて進めてみようと思っています。
一人だけで進めていると、すぐに自分の世界に浸ってしまい、中々進まないのと、認知行動療法は結構エネルギーが要ります。
問題となる考え方(自動思考といいます)を想起する段階で、ちょっと辛くなってしまう事も有ります。
次の段階へ進められずに、自動思考に嵌ってしまうことで、自動思考であることを忘れてしまうようです。
常に見て貰っている専門家がいると思うだけで、目標が明確になり、次へ進むことが出来そうです。

人との関係で疲れたり、いつも、上手くいかずに心が悲鳴を上げる事も多いのですが、人から認められたり励まされたりという事がないと、張り合いを感じず、心の高揚を得ることも出来ない。
そんな、人と関わらない生き方は寂し過ぎるし、それが平気なほど、孤独を愛してはいません。
常に人との間で揺れ動きながらも、人との関係を拒絶して孤立したくはないんです。
人が好きでありながら、人が嫌いで、一人の時間が大切であると同時に、人の温もりを求め続けているようです。

SF映画が好きであると同時に、伝記映画(非凡な)が好きです。
若い頃、歴史小説を大分読みましたが、歴史の中に登場する人物に興味がありました。
現実の中に居場所を見つけられずに居ても、現実の中での居場所を求め続けていて、空想の世界に安住したがる自分との葛藤があります。
自分を守ろうとする自分、自分虐めに興じる自虐的な自分、常に相反する二つ心の間で葛藤しています。

現実と、空想と、安定と、激動と、揺れ動くことで心痛を覚えながら、揺れ動く心の機微を求め続ける。
そんな矛盾の均衡の中に生きています。
時折、心の均衡が崩れそうになりながらですが…。
喜びが必要なのと同じように、悲しみも必要なんです。
喜びしかない、悲しみを感じる弱さを失ってしまった人生には、何の魅力も無いように思います。


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ごろごろ ごろごろ

ごろごろ ごろごろ
あっちへ ごろごろ
こっちへ ごろごろ

へやの すみまで
ごろごろ ごろごろ
ぶつかって はんたいへ
ごろごろ ごろごろ
また ぶつかって
ごろごろ ごろごろ

あさから ごろごろ
ごはんを たべたら
ごろごろ ごろごろ
そとを ながめて
ごろごろ ごろごろ

ねむい みたいで
ごろごろ ごろごろ
ねむれないから
ごろごろ ごろごろ

ひが くれても
ごろごろ ごろごろ
おなかが すいても
ごろごろ ごろごろ

なにも しないで
ごろごろ ごろごろ
したく ないから
ごろごろ ごろごろ

あさから よるまで
ごろごろ ごろごろ
きょうは いちにち
ごろごろ の日


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オーリア・マウンテン・ドリーマー 『誘い』 より

今日は、ある人の書いたを紹介します。
1994年に書かれただそうです。
原題は、「The Invitation」 です。
ニューズレターに載せて学生に配ったのが、コピーされてインターネットで世界中に広まり、いろいろな人の手で翻訳されました。
翻訳されたのタイトルも様々です。

彼女は、カナダのネイティブアメリカンであり、「マウンテン・ドリーマー」 は、シャーマンとしてのメディスン・ネームだそうです。
また、家出したティーンエイジャーや虐待を受けた女性のために活動するケースワーカーです。
今日は、翻訳された数知れない訳の中から、「誘い」 というタイトルを付けられた一編を紹介します。



『誘い』  オーリア・マウンテン・ドリーマー

あなたが何で生計を立てていようと、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、あなたが何で胸を痛めているか、
そしてあこがれとの出会いを 夢見る勇気を持っているかどうかだ。

あなたが何歳だろうと、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、あなたが愚か者に見えるのも覚悟のうえで、
あえて愛を、夢を、生きるという冒険をもとめるかどうかだ。

あなたの星座が何座だろうと、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、あなたがあなた自身の悲しみの中心に触れたかどうか、
そして人生の裏切りによって心を開かれたのか、
それとも縮あがり、さらなる苦痛を恐れて心を閉ざしてしまったのかだ。

わたしの苦痛だろうと、あなたの苦痛だろうとかまわない。
あなたが苦痛に耐えられるかどうか、そして苦痛を隠したり、薄めたり、
取りつくろったりするために じたばたせずにいられるのかどうか知りたい。

わたしの喜びだろうと、あなたの喜びだろうとかまわない。
あなたが喜びとともにいられるかどうか知りたい。
あなたが野生とともに踊り、手足の先まで歓喜に満ちて、わたしたちに用心せよ とか、
現実的になれ とか、人間の限界を思い出せ などと警告せずにいられるかどうか知りたい。

あなたの話していることがほんとかどうか、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、あなたが他人を落胆させることを恐れずに、自分に正直になれるのかどうか、
そして裏切ったと非難されても耐え、自分自身の魂を 裏切らずにいられるかどうかだ

あなたが誠実で、それゆえに信頼できる人間なのかどうか知りたい。
きれいでない日常的なもののなかに 美を見いだすことができるのかどうか、
そして自分の生の源は神の存在にあると言えるのかどうか知りたい。
あなたが失敗に耐え、湖の縁に立って 銀色の月の呼びかけに答えることが できるのかどうか知りたい。

あなたがどこに住んでいようと、どのくらい金を持っていようと、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、悲嘆と絶望の夜のあと、疲れ果て、骨の髄まで打ちのめされて、
それでも起きあがり、子供たちのために せねばならぬことをなしうるかどうかだ。

あなたが何者なのか、どうやってここに来たのか、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、わたしといっしょに炎の中心に立ち、しりごみしないかどうかだ。

どこで、誰といっしょに、何をあなたが学んだか、わたしには興味はない。
知りたいのはむしろ、ほかのすべてが崩壊したとき、何があなたを内から支えるかだ。

ひとりぼっちでも平気かどうか、そして孤独なときの自分を ほんとうに好きかどうか知りたい。


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イルカの共感覚? 動物と繋がる動物的感覚

唐突ですが、イルカセラピーってありますよね。
自閉症などの障害を持った人には特別な対応をするそうです。
まるで、寄り添うように接してくるようです。

これは自論ですが、常々、自閉症的な特徴を持つ人は、少なからず心の共感覚を持っているんじゃないかと思うんです。
言葉を持たない子供の観察から、そのような事が確認されているとか書いてありました。
言葉以外の方法で、意思の疎通を行っているらしいという事のようです。

心が繋がる共感覚というのは、動物的な感覚なんでしょう。
進化の過程で失った感覚の一つで、言葉を持つようになってから徐々に消えていった感覚なんじゃないでしょうか。
その退化したはずの感覚を、未だ保持しているのかも知れません。

そういった動物的な、退化したはずの感覚は、直感といった形で感じることはあると思います。
危険を感じ取る感覚とか、そういった感覚は全く無くなってしまった訳ではなく、普段感じ取ることが出来ないほど希薄に成ってきたという事でしょうか。
進化と共に。

自閉症特有とか、何かと結び付けて考えがちですが、心が繋がる共感覚のような動物的な感覚は、障害の有る無しというよりも、自分の中の感覚に過敏な特徴を持っているという事のような気がします。
感覚に特別過敏な、感覚アレルギー症状なのかも知れません。

退化したはずの感覚、つまり、動物は普通に持っている感覚ですね。
イルカは互いの繋がりが深い動物で、好奇心も強く、心が繋がる共感覚(心の共感覚)に敏感に反応するところが有るんじゃないでしょうか。
イルカの持つ感覚と、心の共感覚を持つ人との感覚的な繋がりが生じ、自然と互いに安らぎを覚え、寄り添ってくる。
ピアサポートのような感じなんでしょうね。

動物と繋がるという事は経験しました。
繋がる感覚は、情動のような感覚だと思います。
動物的な感覚なので、テレパシーのように高度な情報を受け取ることは出来ません。

犬は人の言葉が分かる訳ではないのに、忠実に寄り添ってくるようですね。(従うという表現はしたくないので)
感覚として、情動的な感情を受け取っているように思えます。

人の場合だと、相手が心に傷みを感じていると、自然と共感覚で繋がって相手の傷みを受け取ってしまいます。
心の傷みを受け取ることで、相手の心がいくらかでも軽くなればいいんですが…。
そうでないと、もらい損ですね。
イルカは、感覚が繋がって辛くなったりしないのかな?


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ACと双極性と統合されない自我

最近、自分の中の全てがバラバラで、纏めて置く事がちょっと難しいようです。
このブログも、ちょっと不定期になってしまって…。

心って壊れるんですね。
壊れて、割れてしまった心の器から流れ出した心は、一体何処へ流れていってしまうんでしょうか?
全部流れ出てしまったら、心は空っぽになるのかな?

自分の中で、複数の人格が、その結び付きを絶って、次第に遠ざかっていっているようです。
膨張する宇宙ですね。
突然出現する、緘黙的な人格。
ストレスが作り出したのか、この新たな人格は、表出したら、もう制御不能です。

ACという要素が、とても強いらしく、ACの特徴的なものと言ってもいい位の、「共依存」 。
ACだと、「共依存」 に成り易いと言った方が間違いはないのでしょうが…。
自分の思考や、思い描いた生き方自体が、この 「共依存」 に深く影響されていて、「共依存」 が思い描いた生き方を、そうと知らずに追い求めていたようです。
その事に気付いたことで、形作られようとしていた、新たな自分の容(かたち)・人生への展望が崩壊して粉々になり、飛び散った後には何もない、空っぽな自分の殻が残されただけ…。
蝉の抜け殻のように…。

抜け殻になった、空洞の中からは、以前のような詩も湧き出しては来ないようです。
空っぽになった器に寄生して、主役の座を奪おうと、雑多な人格が蠢いているようで、不快なざわざわという音が聞こえてきそうです。

双極性の波は、激しく揺れ動き、ジェットコースターのように激しさを増しています。
解離していく自我と、幻覚。
解離性の障害か、統合失調症か、…、たぶん、統合失調症の併発なんでしょうね。

アスペルガーとAC は、とても似通っています。
AC というのは、ちょっと厄介な所があって、本来の姿を見えなくしてしまいます。
廻りに合わせて、本来の姿とは違う仮装の鎧を着てしまうようです。
自分自身もその擬態に騙されて、どれが自分なのか分からなくなっているようです。

振りをする所や、自虐的な所があって、ほんとの自分の心を、余計分からなくさせたり、症状の悪化を後押ししてしまったりします。
何より、自分という存在を信じられなくなっています。
自己否定と、メッセージを失った空っぽな自我と、この不安定で統合性を欠いてしまった所からは、詩という容に落とし込む重要な要素が足りないようです。

それでも、時々は何か書けると思いますが、以前とは違ったものになってしまうようです。


先月から、検査を始めて、最初が発達障害の検査、2回目が成人知能検査(WAIS-R)、先日がロールシャッハテストでした。
検査の間は興味津々で、結構楽しんでましたが…。
検査結果を聞くことで、少し落ち着くといいのですが…。

ロールシャッハのイメージは、後で思い出すと全く変質してしまったり、その時の精神状態でそんなに変わるものなのかどうか?
検査の時には、振りをする仮装の人格が強く影響していたのか、思ったことと、少し違うことを答えていたようです。
こういう事も、後になってから気付いて、自分に騙されていたことに落胆します。


先程の話に戻りますが、アスペルガーとAC が似通っているように、双極性障害と統合失調症も似ている所があるようです。
そもそも、これらの全てが、根を一つに持つ巨大樹の一側面を見ているに過ぎないような気がします。
人それぞれ個性があるように、症状の現れ方にも個性があって、どんな要素が強く出ているかの違いが、見え方を左右しているんじゃないでしょうか?

遺伝子に刻み込まれた情報から、こういった障害が起こって来るという説もありますが、もっと、相互に作用しあったものかも知れません。
遺伝子自体が、生命の設計図であると同時に、生命の記録簿でもあるんじゃないか、そんなふうにも思います。

今は、発達障害なのかどうかとか、そういった事をあまり気にしなくなりました。
問題なのは、どんな症状があって、その症状からどんな影響を受けていて、どう生き辛さを感じているかという、主観の問題だと思います。
その感じている生き辛さに対して、如何するか…、そういう事かなと思いますが、如何するかが分からないから希望を持てないし、見えない不安から逃げたくなるんじゃないでしょうか?

そして、時々消えてしまいたくなる。


今日はこの辺で。
壊れた心より。

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長い長い夏休み

暫く、とても長い夏休みをとっていました。
ちょっと、遊びでパステル画を描いてみました。
ほんの遊びですが、何点か載せてみます。

最初の一枚は色鉛筆ですが…。


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