- 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録)

切り絵、パステル画、詩、書、発達障害(自閉症スペクトラム・ADHDなど)、愛着障害(アダルトチルドレン)、解離に関するもの、その他。 暫くは詩が中心です。

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分かる気持ち、分からない気持ち

人の気持ちはいろんな手法で汲み取ろうとします。
結構必死で、相手の気持ちを想像したり汲み取ろうとしたりします。
会話していても、人の感情というのは、幾つもの感情が絡み合いながら、時に迷ったりしながら話を続けているんだと思います。
その一つ一つに反応してしまうのか、相手の気持ちというのがつかみ切れずに、大概、話している間はずっと動揺し続けています。
何故、全てをそのまま受け取ってしまうのかと思いますが、心のフィルターも不完全(或いはほとんど無いのか)なのかも知れません。

はっきり言えずに遠慮されると、その言いたい感情と遠慮している感情の両方を受け取ってしまうのか、どっちが伝えたい事なのか分からなくなります。
そういう時は、相当動揺してしまうので、的外れの答え方をしてしまい、相手を困らせてしまったりするんでしょうね、きっと。
本当は、断りたかったのか遠慮していたのか、後で考えてもなかなか判断できずに悩み続けることになります。
如何すればよかったんだろう、無理強いしてしまったんじゃないだろうか、本当は遠慮してたんじゃなくって断りたかったんじゃないだろうか、なんてずっと悩み続けます。

日本人の奥ゆかしさ(遠慮したり、物事をはっきりとは言わなかったり)が、ASDなどには分かりづらいと言われるのは、少なくとも僕の場合には、其の中に含まれる両方の感情が伝わってきてしまうので混乱するんじゃないかと思います。
電話の場合は、相手が見えないことでの不安と、言葉以外の付加的な情報が無くて判断材料が不足するので、余計に相手の気持ちが分からなくて混乱するんだと思います。
電話の向こうから伝わってくる声に含まれる複数の感情の、どっちが(又は、どれが)主役かが全く分からなくなるんでしょう。

内側から見た自閉症の世界では、そんな事が起こっているんです。
感情というものが分からないんじゃなくって、感情をまともに全部を受け取ってしまうので混乱してしまい、迷って判断できないんですけど、外側から見たら、単に相手の気持ちがわからない人たちになってしまうんでしょうね。
AC もあるので、どれがどう関係しているのか複雑で、ASD の一般的な事例とは言えないかもしれませんが(僕は、ちょっと違う、独特な部分が多いから尚更ですが)、無視できない要素じゃないかという気はしています。


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切り絵の作品展に出展しました

切り絵の作品展に出展しました。
春からずっと、殆ど切り絵を切ってなかった(詩集のタイトル程度しか…)ので、今回の作品展…合同展ですが…には、出すつもりもなかったので作品も切ってなかったんですが、急に(勧められて)出展を決めたのでちょっと大変でした。
約十日で仕上げなければいけなかったので、ちょっと雑になったかと思います。

明日から来月4日まで、上田創造館で展示しています。
今日、作品を搬入して展示してきたんですが、間に合わなくて朝まで切り絵を貼ったり、額の紐が見つからなくて探したり、何とか間に合ったけど、もう少し時間が合ったら、もうちょっと綺麗に仕上がったと思います。
十日では、ちょっと無理があったかも知れません。
出展するとなると、前に切ったものでは何となく…今の気持ちと離れている気がして、殆ど新たに切りましたが、切っているうちに別のデザインが頭に浮かんできて、切り絵を貼っていくうちにイメージが変わってしまったりしてバランスがずれてしまったり、最後は時間がなくてちょっと中途半端になった作品もあって、全体的に少し不満足。

詩のほうに気持ちが移っているので、詩と切り絵とどっちが主役か分からないですね。
切り絵は薄い紙を使ってはさみで切っているので、ちょっと印刷してあるように見えますがちゃんと切っています。
後日、写真を載せようと思います。

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僕の自慢の先生

僕のメンタルを診て貰っている先生は、たぶん、他にはどこにも居ないんじゃないかと思うような、とても個性的で、人間的魅力に溢れていて、全然精神科医らしくなくて、いつも必ず患者と寄り添ったところから、そっと支えているような、僕の自慢の先生です。
ちょっと不思議ちゃんで、患者へのアプローチの仕方がとても独特で、他の精神科の先生とは、おそらく全く違うところから手を差し出しているような感じです。
多くのメンタルクリニックでは、心の病気を細かく分類し、その分類した病名に添った治療・投薬をしていると思います。
でも、診断が違って治療が逆効果になることがよくあるようです。

僕も、最初の頃は病気、或いは障害の診断名をかなり気にしていました。
それが、ACに気づいたことが一つの切っ掛けになったんでしょうか…。
どこまでが本来の自分で、どこからが見せかけの振りをしている自分か分からなくなり、混乱する中で、障害の名称など如何でもよくなりました。
名称が如何であれ、症状に変わりは無いわけです。
病名、障害名を治療して欲しいわけじゃなく、症状を何とかしたい、何とかして欲しいわけです。

病気や障害の名称だけを見てしまうと、双極性障害だからこういう時はこうなるんだとか、ASDは人と共感できないだとか、どこかに当てはめようとしてしまいますよね。
でも、症状は千差万別、症状にも皆個性があって少しずつ違います。
無理に当てはめようとしても、当てはまらなければ治療方針が立たないということになるんでしょうか。

僕が、とても信頼している自慢の先生は、必ず症状を見ています。
それぞれの症状にあった治療をしているようです。
心というのは、壊れたり傷ついたりしますよね。
怪我をしても、自然と治そうとする力があるように、心にも自然治癒力はありますよね。
心は、治すのではなくて作ればいいと書いてあったのを見かけました。
心は、中から癒して、育てていけばいいんだと思うんです。

障害といわれるものについても、結局は自分の中で新しい自分を、生き辛さに負けない自分を育てていくしかないんじゃないかと思います。
人との関係が苦手で大変なら、人と関わらない生き方をすればいいと簡単に言う人もいます。
もちろん、それを選ぶのも自由ですが、僕はその道は選びません。

少し、話が逸れましたね。
僕の自慢の先生は、心が自ら癒そうとする力を引き出してくれます。
薬に頼らずに、患者本人が持つ力をしっかりと捉え、引き出すんです。
一見、何もしていないように見えて、実はすごいことをしているんです。
受診して、会うたびに、そう実感します。
たぶん、特別な才能だと思うから、他の精神科の先生と比較は出来ないと思います。
僕は、「心を揺らす」 と勝手に言っていますが、ほんとにちょっと不思議ちゃんですね。

診断しないと、手帳の申請ができなかったり、診断によって安心する場合もあります。
僕もそうでしたが、自分が何の障害なのかを知りたいのは当然ですが、ある程度のことが分かれば、後は症状にどう対処していくかを考える段階になるんだと思います。
患者にも、踏むべき段階があるのかも知れません。
発達系の障害の場合は、自分が何なのか分からずに不安になっているので、知ることはとても大事な第一歩だと思います。
それが最初の段階。
知った後でも消えない不安は、それ以上知ることだけでは解決しないんじゃないかと思います。
ここからが、次の段階。
どう生きていくか、どうやって生き辛さを解消していくか、或いは、どうやって再発しない心を作っていくか、そういったことが中心になっていくと思います。

僕は、心理学自体に興味があるので、探求はずっと続けますが、障害の分類やその詳細にはあまり興味がなくなりました。
今、知りたいのは、一つの症状がどこから来てどうすればいいのか、例えば、衝動性が何を原因としているかが分かれば、衝動に惑わされることが、少しでも少なくなるかも知れません。
一口に衝動性といっても、いろんな要素が絡んでいるんじゃないかと思うんです。

前回書いたように、共感も受け取る感情の情報量が膨大になって、感情がフリーズしてしまうんじゃないかというのが自論です。
今のところですが…。(その内、間違いに気づいて考えが変わるかも知れません。)
障害自体も、全く別の障害がそれぞれ単独で存在し、その幾つかを併せ持っている場合がある、というのが定説?のようですが、元は一つの障害群のそれぞれの側面のような気がします。(上手くは説明できませんが…)
こういう考え方自体が、実際にあるようです。
こういった話も、その(自慢の)先生に話してしまったりするんですが、否定せずに聞いて貰うだけで、ちょっと嬉しかったりします。
こんな荒唐無稽の話は、聞いても貰えなかったり、鼻であしらわれたりしても、しょうがないですよね。
こういった話も、まともに聞いてくれるのは、やっぱり優しさかな?

あたまごなしに否定されたり、定説を述べられたら、基礎知識も無しに勝手に想像を廻らせているんだから、とても太刀打ちできないし、話をする気も失せてしまいますが、僕の自慢の先生は、いつも一緒になって考えてるように見えます。
そういうところも、無条件に信頼する要因でしょう。

それと、基本的な感情表現が上手くできないのは、これは結構厄介なんです。
ありがとう、ごめんなさい、おねがいします、そんな言葉をいつ言ったらいいのかが難しいですね。
僕の自慢の先生を見ていて、そういったことをどうすればいいかを教わったりもします。
教えているつもりは無いと思いますけど…。

だから、指標でもあり、いつも教わることばかりです。
聞きたいことが山ほどあって、ACだって分かってからは尚更、聞きたいことだらけで、困らせてるかも知れませんが…。
何があっても、すぐ横に心を寄り添わせて…、こんな精神科医っていないんじゃないかな。
この先生に巡り会えなかったら、今は、今という時自体が存在しないと思うし、この自慢の先生の下で、一つ一つを少しずつでも乗り越えていってるように思います。
一つ乗り越えても、また次の壁が立ちはだかり、その度に、この先生はちゃんと見ててくれるんですよね。
「ああ、分かっててくれる」 それが、大きな支えになっています。
すっかり頼っちゃってるけど、いいのかな…。

今日は、僕の自慢の先生の話でした。


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自分の中には見えない感情

無意識の内に人の心と繋がってしまうのは、時にとても不自由です。
共感覚で繋がって受け取った感情がどんなものであれ、それは無意識の内に起こる感覚なので、自分でも全く気づかずにいます。
数時間、或いは数日経ってから、自分の中の見慣れない感覚(感情)が、自分のものでないことに気づきます。
自分の心の中をいくら探ってみても、それが何なのかを見ることが出来ないことに気づくと、始めて、それが自分以外の誰か(共感覚で繋がった)の持ち物だったことが分かります。
悲しみであったり、不安であったり、いずれにしても、何度繰り返しても、その感情が自分のもので無いと気づくまでの期間、長ければ数週間に亘る時もありますが、あたかも自分自身の感情のようにそのまま受け取ってしまいます。

その受け取った感情が強ければ、例えば、とても深い悲しみや、とても強い不安や、その深さや強さの分だけ心に重荷を背負うことになります。
しかも、何故なのかが分からずに悩み続けることになります。
自分の中をいくら探しても、自分のものではないので、何故かなんて分かる筈がありません。
自分の外から来たものであることが分かった途端に、心の重荷はその質量を失い、それまでの重圧から開放されます。
こんなことが、何度も繰り返されます。
知らないうちに受け取ってしまったお土産なので、気が付くまではお土産であることすら分からないんです。

分かっていれば、その都度そんなに苦しい思いをしなくて済むんですが…。
全く、不便な感覚です。
受け取る感情が、より深いところにある強いものであることが多いだけに、あまりに強烈で暫くは流されるままになってしまいます。
ここずっと続いていた理由の分からない気鬱感が、今回もまた共感覚によるものだったようです。

猫や木と繋がっていた方が、ずっと楽なんですが…。
それでも、この不可思議な共感覚が、何かの、誰かの役に立てるのなら幸いですが…。
少なくとも、悲しさや不安や辛さをストレートに受け取ることで、当にストレートに分かって上げることは出来ます。
共感とは意識して相手の気持ちを察して思いやることだと思いますが、意識する部分と安全な場所から察してという部分が違います。
意識していないところで働いてしまうことと、危険な状態まで同化して共有してしまうことです。
だから、せめて共感覚で繋がった相手から、共有して繋がることで受け取った心の重荷を、少しは減らしてあげられるといいんですが…。


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どっちでもないピコ

ピコって男の子、それとも女の子。

実は、ピコは どっちでもない と思ってるし、
どうでも いいことなんです。

なぜ、そんなことに しばられなくちゃ ならないのか、
よくわからないし、もっと 自由でいたいって 思ってるんです。

生まれたのが 早くても、遅くても、
住んでるところが 遠く離れていても、
肌の色や、目の色や、髪の色が違っても、
偉い人も、偉くない人も、
ピコには みんな おんなじなんです。

それと同じで、男の子でも、女の子でも、
ピコには あんまり関係ないんです。

わざわざ 区別したり、差別したりするのが、
ピコには 理解できないんです。

みんな おんなじでいて、みんな 違うんだから。
それだけで いいんじゃないかって、そう思ってるんです。
そのままで いいんじゃない、ってね。


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月の光、心の鏡

月の光って、ちょっと寂しくて。
高貴で、孤高で、穢れを寄せ付けない 鋭さがあって、
心を射る 強い光で、心の中に 鏡を創り出す。

魅入られて、魂を吸い取られるような 怖さがあって、
異世界への 憧れを抱かせる。

月の光が創り出した 心の鏡が、
自分の姿を 情け容赦なく見せつける。
偽りを許さない 純粋さで、
心の隅々まで 洗い流す。

多彩な色を秘めた 色の無い世界。
どんなものも 光と闇に 二分してしまう。

無限の温かさを秘めた 冷たい光が、
静かに 射るように 語り掛ける。
「おまえは、なにものなんだ」 と。
そして、重ねて 問う。
「どこへ いこうとしているんだ」 と。

月を見る度に、その答えを 探し求める。
自分の中に、自分の外に。

月は 心の鏡。
心は 月の写し身。
光を複製する 太陽の擬態。
月に映るのは 心の絵柄。

寂しくも、強く、穢れなく、冷たく、温かく、
過酷で、鋭く、ひたすら優しく、
そんな月が好きです。


10/2 №138

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