- 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録)

切り絵、パステル画、詩、書、発達障害(自閉症スペクトラム・ADHDなど)、愛着障害(アダルトチルドレン)、解離に関するもの、その他。 暫くは詩が中心です。

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心の境界線

さっき載せた詩は、随分前に書いた詩です。
ここ最近、詩を書く気力もなくなっていて、やっと以前に書いたのを載せました。

今日は、少し落着いているので、久しぶりに書いてみようと思います。
ACについての記事で、人との距離感が上手く掴めない事について書かれていました。
発達障害にも通じる内容で、僕は両方だから、そのものですが。
自分と他人との間の境界線が、曖昧になってしまう。
常に境界線を越えて、自分の意思に反して介入され続けたために、境界線が分からなくなり、人との適切な距離感を保てなくなってしまったという事のようですね。

今回は、全く参考になりませんでした。
僕には元々境界線自体が無いんです。
心の距離間という概念も、心と心の間に空間が存在してないので、心の距離を認識できないんです。
常に、あらゆる心が、勝手に進入してくるので、境界線は元から存在していません。
無いものは作れない。

根本的に、普通のACと違うようです。
ACになって、境界線が崩れたんじゃなくて、境界線も無く、心と心の空間すらないので、その不安と恐怖がACと同じような症状を育んできたんだと思います。
だから、一般論は全く通用しないんです。

心の距離自体無意味で、理解不能です。
今までは、かなり悩みました。
如何しても人との関係を良好に維持できずに、苦しくなって自分から離れていってしまう事が殆どでした。
そこには、僕の特殊な感覚が介在していたんですが…、心が有る程度見えてしまう…、見えているのは感情です。
それが不安を煽り、ACの要素を助長して、顔色を伺って神経質になり、不安で堪らないので相手に気を使う。
それも、どんどん加熱して、気を使いすぎて疲れ果ててしまう。
それだけ気を使われると、相手も疲れますよね。
そしてちょっと敬遠されれば、それを感じ取って更に不安になって、苦しくて、それ以上近くにいることも出来なくなってしまう。
そしてサヨナラをして、独りぼっちに戻っていく。
そんなことの繰り返しでした。

たぶん、僕には僕だけの特別な方法でしか、本当の解決法は無いんでしょう。
取り敢えずは、人との距離など認識できないので、考えないで無視することにしました。
気を使い過ぎて破綻してしまう人間関係の連鎖を止めるために、なるべく気を使わないでいられるような、自然な付き合い、不満な事があれば軽く言い合えるような(今迄、それが出来ずに不満も溜め込み、顔色ばかりを見てきた気がします)、ちょっと無遠慮でもいいから、素直に感情を表現できるような(いつも、感情も押さえ込んでいました)、そんな関係を築けるようにしたいと思うんです。

人との距離感は…、心を見られたくない人は、近寄らないことですね。
近づく時は、覚悟して心をオープンにするしかないですよ。
そう、伝えるしかないですね。

心は止められないけど、私生活には基本的に立ち入りたくありません。
あくまでも、軽く触れながら、しっかりした信頼は築けるとベターですが。
私生活の部分に深く立ち入れば、孤独感、疎外感を感じたり、心の流入に苦しくなったり…、でも、拒絶するつもりも有りません。
そっと、近くにいるだけなら、逆に安心感をもてるでしょう。
自分で輪を作れるような場合は大丈夫なんです。
人の作った輪には入っていけないんです。
そこがジレンマですね。


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ひとりのピコ

ピコはいつもひとり。
誰かと話す度に、他の人とは違うんだって、
強く感じてしまう。

同じものを見ても、見えているものは違うもの。
感じたままを伝えようと思っても、
他の人の感じ方と違いすぎて、伝わらない。

話してることと、思ってることが一緒に伝わってくるから、
時々ちぐはぐで、ちんぷんかんぷん。

言いたいことと、言ってることが違うと、
何を言いたいのかわからない。

何を聞いても、ピコの感覚と遠くて、
心まで届かない。

だから、ピコはいつもひとり。
誰かと一緒にいても、
心はいつもひとりぼっち。

隣の世界の異邦人のように。


11/3  №141


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ちょっと、疲れているようです

先日の切り絵の作品展の後の「燃え尽き症候群」かな?
そこへ、精神的な負担が加わって、相当疲れが溜まっていたようです。
そういうことに、なかなか気付かなくて、知らず知らずに無理を重ねてしまい、突然動けないほどの疲れを感じて、そこまでいってやっと疲れていたことに気付く事が多くて…。

詩も載せたいんですが、もう少し時間を下さい。

作品展に出した切り絵も、近いうちに写真を載せたいと思います。

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きのうのわたしにさようなら

きのうのわたし さようなら。
きょうのわたし こんにちは。

きのうのわたしは だれだっけ。
もう会えないから どっちでもいいけど。
きょうのわたしは どんなわたし?
ちょっとドキドキ、ちょっと不安。

きのうのわたしと きょうのわたしは、
何かちがうのかしら。
きのうのわたしは ちょっとさびしかったけど、
きょうのわたしは だいじょうぶかな?
ちゃんとできるかな?

何もなければ つまらないし、
何かにつまづくと かなしいし。
きょうは 何かをみつけられるかな?

きょうのわたしの じかんがおわって、
月のじかんになったら、
きょうのわたしに さようなら。
あしたになったら、あしたのわたしに出会えるかしら。
どんなわたしが そこにいるのかしら。

11/3  №140


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心の重さ

心って重いの? 軽いの?
君の心は重いの? 軽いの?
僕の心は重いの? 軽いの?

心はどうやって重さを量るの?
体重計で量れるのかしら。
心だけ量れるのかしら。

心が重いとどうなるの?
重くて地面に沈んじゃうの?
それとも、ずるずる引き摺って歩くのかしら。
重すぎて歩けないんじゃないの?

心が軽いとどうなるの?
軽すぎて、勝手にどこかへ飛んでっちゃわない?
飛んでった心は見つけられるの?
心が飛んでっちゃったら、何か残るのかしら。

僕の心は重いのかな? 軽いのかな?
きっと、相当重いんだね。
でも、その重さをどうやって減らせばいいか知らないんだ。
誰か、教えて!
お願いだから!

11/3 №139


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受け入れる事、理解する事

久方ぶりで詩を書いたので、後で載せたいと思います。
その前に、ちょっと思ったことなどを…。

発達障害についてとか、生き辛さを感じていることについてとか、独特でちょっと他の人とは違った感覚についてとか、話しても分かって貰える人は1割居ればいいほうだと聞いていました。
分かろうとしてくれる人は確かに居ます。
でも、何故か距離感を感じてしまったり、伝わらない苛立ちを感じたり、終いには疎外感を感じることになります。

根本的に、分かること、理解することなんて簡単に出来る事ではないんじゃないかと思うようになりました。
分かろうとすればするほど、理解できる(よく知っている)規定の枠に、無理に当て嵌めて納得しようとする人のほうが多いんです。
そんなに違わないんだという、思い込みを作り上げることで安心しようとする心理。
一般的な枠に近づけようとすることで、理解を示そうとする心理。
それが、むしろ普通の好意的な反応なのに、違和感と反発を感じてしまう。

価値観自体が違う事を、認めなければいけないと気づきました。
価値観が全く違う事を否定するのではなくて、自分の全く違う価値観を主張してみてもいいんじゃないかと思い至った訳です。
そういうことを話すのは、会話となるとかなり大変なんですけどね。
誰とも共有出来ない感覚を、最近は強く自覚することが多くて、理解など出来ないだろうと疎外感を感じてしまう。
理解して貰いたい、分かって貰いたいという気持ちを抑え切ることが出来ずに、苛立ちを感じてしまう日々を繰り返していただけだったんです。
でも、分かって貰う必要も無いんじゃないかと思うし、分かって貰うこと自体無理なこともあります。
ただ、そうなんだねって、受け入れて貰うだけで充分だったんです。

理解できなくても、分からなくても、受け入れることは出来ると思います。
実は、その方が重要なことだったんです。
無条件に安心して信頼できるようになる人は、理解しようとする前に受け入れようとしてくれる人なんじゃないかと思います。
メンタルクリニックの先生たちも、カウンセリングの先生も、一般的な枠に当て嵌めて理解しようなんてしていません。
ただ、単純に、受け入れて貰っているんです。
だから、無条件に信頼するようになったんだと思います。
幸運な巡り会いだったと思います。

受け入れることって、分かろうとするよりも大変なことかも知れません。
僕自身、受け入れるなんて簡単には出来ないかも知れません。
受け入れるには、理解できなくても構わないわけです。
理解できないままでも、その違いをそのまま受け入れているんですね。

同じだとか、同じようなところもあるとか、誰でもそういうところはあるとか、そういった言葉に感じた反感は、無理に分かろうとする心を見てしまったからなんでしょう。
同じじゃなくて、似ていることはあっても、みんな根本的に違うんですよね。
まして、(普通の)人とかなり違う人たちも居るわけです。

同じところではなくて、違うところから始まるんじゃないでしょうか。
そして、その違いを受け入れることから、全てが始まるんじゃないかと、ふっと、思いました。
価値観も違う、ものの見方も違う、感じ方も違う、少し似た人が居るだけで、根本的にみんな違うんです。
そんな違いの大小って、それ程意味があるんでしょうか。

無理に理解しようとすることは無意味です。
自分の知っていること、体験している範囲でしか理解は出来ないんじゃないでしょうか。
その範囲を超えたことは理解すること自体が難しいと思った方が、余程、真実味があると思います。
それぞれの、見方の違い、感じ方の違い、考え方の違いを、互いに尊重するようになれば、障害なんて言葉自体が消滅するんじゃないでしょうか。

いろんな違い、肌の色の違い、言葉の違い、好みの違い、障害と言われているものの有る無しの違い、考え方の違い、性別の違い、社会的地位の違い、どれも拒絶する必要はないと思います。
まして、マイノリティを受け入れる事を拒絶すれば、社会はつまらない画一的なものになって衰退してしまうように思います。
多様性を認めて欲しい。
マイノリティにも、居場所を下さい。
ただ、そう、願います。


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承認願望について

昨日で作品展(合同展ですが)も終わって、切り絵を切っていた時に強い疎外感を感じていて、その疎外感がそのまま切り絵に表れていたために、違和感というか、詩との不協和音を奏でてしまったようです。
疎外感からの過去への拒絶から、以前に切った切り絵を使う気に慣れなくて、今回、十日程で新たに切った切り絵には、強い疎外感から来るとげとげしい反発が強く出てしまい、切り絵(特に僕ははさみで切っているので)独特の繊細さが薄れてしまったようです。
作品としては、良く無かったですね。

いろんな方に見に来て頂いて、出品したことを後悔はしていません。
足を運んで頂いたことは、作品の出来はどうでもいいほど嬉しかった。
昨年の方が、作品としては今年よりも余程良いと思いますが、殆ど見に来て貰えなかったのでちょっと寂しかったけど、今年は毎日のように案内しに出かけて行って、疲れたけど会場で会えるのが楽しみで…、昨日で終わってしまいましたが…。

作品の中の切り絵に秘められた心模様が、思い及ばない異質なものが根底にあって、謂わば見る人をすら拒絶しているようなもので、詩とは奇妙な不協和音が響き続けて、幸い最終日が終わるまで気づかなかったのでまだ良かったですが…。
最終日を終えて帰ってから、このことに気づいて、それで完全に燃え尽き症候群です。

話は変わりますが、こういった機会にいろんな人と会って話すうちに気づいた事があります。
僕には確かに、強い承認願望があります。
AC から来る要素もあるかも知れませんが、認められたいと言う強い願望は常にあります。
詩や切り絵、特に詩は手作りの詩集を作って差し上げたりしていますので…、詩集を売って有名になりたいとか、誰にでも認められる有名な詩人になりたいとか、詩集でなくても絵本(絵本を創りたいと思っているんですが)でも大量に売って稼ぎたいとか、そう思っていると誤解しているようです、大概の人が…。
認められたいと言うのは、誰にでも認められて、つまり一般受けしたいというものとは全く違います。
人とは少し違う感覚を持っているし、そのままの感覚で詩なども書いています。
それが誰にでも受け入れられることなど期待していないし、一般受けするように受け狙いの詩など書く気にもなれません。(詩だけでなく…)
一般受けするものほど、つまらないものは無いと僕は感じます。
多分、理解されにくいことでしょうけど…。

詩でも、その他の創作でもそうですが…、詩の場合は特にですね…、特定の誰か、或いは不特定の誰かに向かって書いています。
その誰かが自分自身のことも多いし、特定しないけれども誰かに向けて書いていることもあります。
特定しない誰かとは、詩を読んで何か伝わるものがあれば、その、僕の詩を読んで貰った人が誰かなんです。
常に、目の前には一人の観客しかいません。

詩を読んで心を向けて貰った時に、その瞬間に観客になります。
承認願望は不特定多数に対してではなくて、常に誰かに認めて貰えば十分なんです。
そういう人が多かろうが少なかろうが、観客の人数には関心すらありません。

もともと、詩でも他の創作でも、ただ噴き出すものを繋ぎとめているだけです。
繋ぎとめなければ、その時の光は何処かへ飛んでいってしまう。
光の色は明るい時もあれば、暗い時もあって、何かを制御したり、書くものをコントロールしたりする事は不可能なんです。
よく、もっとこういう詩にすればとか、いろんな意見はあるでしょうが、出てくるものをコントロールして、例えば 「こういう詩」 にすることは無理でしょう。
つまらないものが出てくる事もあるし、意図しないものが突然出てくる事もありますが、そのうちの一つでも、誰かに…、恐らく、先ずは信頼する誰かに認めて貰えれば、それで十分であり、たった一人の観客でも構わないんです。

詩が認められる原点が、DNA の近い一人と、僕が通っているメンタルクリニックです。
いつでも、そこから広がる世界に詩の容となって広がっていくだけで、それが自分の存在を容認できる元(origin)になっているのかも知れません。

これから、もう少し経ってからかも知れませんが、絵本を創りたいと思っています。
パステル画もそのために少し練習しないといけませんが…。
その絵本を届けたいと思います。
でも、やはり誰かにです。
誰かに届けば十分で、大勢でなくても構いません。
大量に売るとか、そういうことは、僕のこれから創るであろう絵本などに興味を持っていただけたら、信頼できる人であれば、その方にお任せします。
金銭管理というのは僕にはできませんから…。
もし、そういう事があればの話で、興味すらありませんが。
売れようとか、儲けようとか思ったら、もう何も新しいものは出てこないでしょう。
これは、間違いなく。

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自分で在りたい

誰でもない、自分自身で在りたい。
ずっと、自分で在り続けたい。
自分を見失わない、自分で在りたい。

自分自身の生き方を、生きたい。
自分に負けない、自分で在りたい。
自分を許せる、自分で在りたい。
自分を好きと言える、自分で在りたい。

人に媚びずに、自分を信じたい。
自分を信じられる、自分で在りたい。
人を信じられる、自分で在りたい。
心を失わない、自分で在りたい。

喜びを分かち合える、自分で在りたい。
悲しみと向き合える、自分で在りたい。
生きることを楽しめる、自分で在りたい。
怒りに振り廻されない、自分で在りたい。

人を愛せる、自分で在りたい。
人を許せる、自分で在りたい。
人に振り廻されない、自分で在りたい。
自分も人も大切にする、自分で在りたい。

素晴らしいものを見つけられる、自分で在りたい。
美しいものを見つけられる、自分で在りたい。
心を自由にして、生きていきたい。
夢を失わずに、生きていきたい。

感覚を解き放って、空へ飛ばしたい。
草木と語らい、心を癒したい。
野性の共感覚と、一緒になりたい。
風の香りを感じて、風そのものになりたい。

人の温もりの中で、自分を生きたい。
人と自然との輪の中で、自分を生きたい。
心のままに、自分を生きたい。


№137

※ このはまだ載せてなかったと思います。(このも、切り絵を散りばめて出展しました)


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