- 『ピコの心』 -                (凸凹作家ピコの屈折した記録)

切り絵、パステル画、詩、書、発達障害(自閉症スペクトラム・ADHDなど)、愛着障害(アダルトチルドレン)、解離に関するもの、その他。 暫くは詩が中心です。

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心の大きさ、空ろな心

心の重さも大きさも測る方法を知りません。
心の重さは、その重圧感で感じることは出来ます。
楽しい時は、心も軽くなりますね。
反対に、悲しみが深くなればなるほど、心も重くなって支えきれなくなります。

心の大きさは如何なんでしょう。
或いは、心の深さですか。
心が広いとか狭いとか、ということは言いますね。
でも、心そのものがそれほど小さいとは思えません。
幾ら研究しても、その全貌が分からないほど深いんじゃないですか。
心の表面だけを見て、そこに写る姿が広いとか狭いとか言っているんでしょうね。

心を失くしたような状態を空ろ、或いは虚ろと表現しますが、はて、心そのものが測りきれないほど広大で深いと仮定すれば、その中は殆ど空ろなのかも知れません。
広大な心の小宇宙に、心の欠片が漂っているのを想像できます。
空ろな空間を、様々な心の欠片が漂っているんです。
其処は空ろであっても、虚ろではありません。
虚ろ(偽物)は、心の表面に現れた影模様の有様でしょうか。

僕のようなモノの、特有の言葉遊びかも知れませんが、心は小宇宙だって考えた方が楽じゃないですか。
いっぱいになってしまったように感じるのは、心の表面だけで、その奥の広大な空間は無限に広がっていて、どんなものも、奥深くまで流してしまえばいいだけなのかも知れないって、そんな風に思うんです。
心の表面が悲しみでいっぱいになったら、涙の海に乗せて、無限大の心の奥深くまで流してしまえばいいんですね、きっと。
不安が膨れ上がって、心の表面がはち切れそうになったら、ふーっと一吹きの風を呼んで、心の奥まで吹き飛ばしてしまえば、其処は空ろな無限空間、幾らでも余力が有るんです。

僕などは、心の表面よりも、もっと深くに居ることが多いので(ASD 特有なところも有るかも知れませんね)、底なしの深みを見る(意識する)ことが有りますが、誰でも同じくらいに広大な空ろ空間を心の中に持っていると思います。
最近、心は無限大の空間なのに、何故、いつもいつも、悲しみや不安で心がいっぱいになって支えきれなくなるんだろうって、そんな疑問が浮かびました。
心が限界を感じるのは、心の表面が限界を感じるだけなんじゃないかって、そんな気がしませんか?
実は、その奥に無限の空きスペースが有ることを知れば、少しだけ心の重さが減りませんか?
その減った分は、空ろの空間に吸い込まれていった筈ですよ。

悲しみも不安も、心の表面から上手く押し流して遣れるようになると…、それが上手く出来ればいいですね。
それ自体が消えて無くなるわけではないけど、その重荷は押し流して軽く出来るかも知れませんよね。
空ろな無限空間が心の奥に実在すると、ただ信じさえすれば…。 ね。

空ろな空間を彷徨うことの多い僕から、奇妙な発想をお届けしました。



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虫の鼓動

先程の話の続きです。

昆虫の種類って、他の脊椎動物や節足動物などと比べても、比較にならない多さで、動物全部の種類の8割を占めるそうです。
その数も膨大なことでしょう。

地球上に酸素の濃度が高かった3億年前の古代、石炭紀には巨大な昆虫が我が物顔で徘徊したり、空を飛び回っていたそうです。 (昆虫の巨大化と酸素濃度の関係については、新説が有るそうですが)

今は、そんな恐ろしい昆虫は生存していませんが(恐らく)、現在の種の数からして最も繁栄している種と言えるようです。
数にして、どの程度の昆虫が居るのか分かりませんが、それらの昆虫の鼓動がシンクロ(同期)したら如何なるんでしょう。
小さな昆虫の鼓動が、しかし、膨大な数の昆虫の鼓動が完全に同期したら、大地を揺らす激動となるんでしょうか。
地球の鼓動と同期した昆虫の鼓動が、大地を揺らして地震を起こし、なんて、SF作品にありませんでしたっけ。

ふっと、思い付いてしまいました。

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虫の変態

ふと、昆虫にも心臓が有るのかな、と思って調べてみました。
人の…(こういうのは、眩暈がして書けません)にあたる体液を送り出すポンプの役割をする、背脈管と呼ばれる器官が心臓の役割を果たしているそうです。
脳も微少ながらありますが、脳という形状に至っていない為なのか、脳神経節と呼ばれるそうです。
また、社会性を持つ昆虫に発達している脳の部位を、キノコ体と呼ぶそうです。
キノコが社会を作ったんですね。
じゃあ、今の社会はキノコの副産物?

話が、とんでもなく遠くまで飛んでいきました。

昆虫は、変態して姿形を全く別の形態に変えてしまいますよね。
あの芋虫や、青虫が、あの気持ちの悪い生き物が、サナギになり、やがて自身を引き裂き、背中から殻を破って蝶となって再生してくるんですね。
どうやって、あの美しい蝶になるのか不思議です。
サナギになり、蝶となって生まれ変わる過程で、サナギの中では一端自分の体を分解してしまうそうです。
サナギになったばかりの状態では、その中身はドロドロの状態になっているそうです。
蝶となって生まれ変わるために、自分の体を崩壊させてから、新たな姿を作り直すようです。

人生を新たに生き直そうとすれば、一端自身を崩壊させるほどの混乱の後に、初めて新たな旅立ちが出来るのかも知れません。
してみると、僕は今、ドロドロに融けた状態から、自分の形態を作り直している最中なんでしょうか。
今は未だ、ドロドロかな?

うっ。

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夜明けの兆し

未だ薄暗き天地の狭間。
其の眼で何を視ているのか。
虚空の彼方を凝視し、
視えざる何かを、
見極めようとでもするかのように。

未だ届かぬ光の甲矢と乙矢。
其の身で何処へ往こうとするのか。
先の事など何一つ考えず、
流れに身を任せているかのように見えて、
常に抗い、鋭利な気を内に秘め、
その時を待つかのように。

地の果ての彼方から、
微かに伝わる陽の振動子。
其の心は何をしようとするのか。
天地と時空の境界を越え、
未明の薄闇の先に、
何処までも果て無き空へと、
飛び立たんとする心の核を抑え難く。

黎明の魁、夜明けの兆しを臨みながら。


2016/1/2



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翻訳のメカニズム

本題の前に。
僕自身、自閉症スペクトラムであると同時に、ADHD でもあります。
でも、表面上現れる特徴などは類似していることも多く、双方を持つ身としては、どの部分がどっちの障害に因るものなのか、などと、いちいち考えても詮無きこと。
更に、愛着障害も含有しているのですから、各障害の類似項の方が多いんです。
それに、今の分類にすら疑問を持っています。

ともかく、最近はその名称には余り考慮しません。
まして、個人差も大きく、その個人差を無視して大まかな枠の中に当て嵌めようとすること自体に、かなりの無理があるのを感じます。
そういう事ですので、障害の名称自体を省略することが多いことを、今後の前提として本題の前に…。


では、本題ですが、自分の中の言葉と外側(一般的な、とでも言っておきましょうか)の言葉とは、微妙に食い違っていたり、その意味する内容の解釈が違っていたり、とにかく、翻訳しないと理解が出来ないんです。
英詩の翻訳をしたことがありますが、何について書かれているのか、何を言いたいのか、その予測に基づいて翻訳していきます。
その予測が付かないと、すなわち、言いたいことの趣旨が掴めないと、翻訳はかなり難航します。

これと同じことを、母国語で有る日本語に於いても行っているということです。
英詩より余程楽なのは、単語の語彙数が桁違いに蓄積されているからですが、ただし、正確さに欠けます。
それは、独自の解釈をしてしまっているからです。
要約すると、母国語のように良く知っている異国語を駆使しているということです。
それで、翻訳しないと理解できないんです。

書かれたものは繰り返し読むことで、予測と翻訳をフルに活用します。
ネットで見る情報は、画面として瞬間的に捉えた中から言葉を記憶した画像から抽出し、必要とする言葉が見つかると読み始めます。
この時点で、書かれた内容の予測が付かない場合は、ざっと単語拾いをして、予測が付いてから読み始めます。
それでも、PC の画面で見るときは斜め読みが殆どです。

紙に印刷されたもの、書籍などを読む時は、様相が違ってきます。
先ず、斜め読みは殆どしません。
本の場合は、最初の帯びや解説、目次などから趣旨を予測します。
だから、帯びは大事に扱います。
それから、ゆっくりと時間を掛けて翻訳していきます。
時々、途中まで戻ったり、最初まで戻ったりしながら。
戻って、内容を再確認する時は斜め読みに近くなります。
途中で戻るのは記憶の問題もあります。
最後まで読んでから、もう一度読むまで待っていられないので、途中から戻って読むことが多くなります。
その上で、最後まで読んだ本を、もう一度読み直すこともあります。

こういった方法は、個人差がありますが。
映画を見ていても、よく巻き戻したり、何度も見たりします。


会話となると、読み返したり巻き戻りたり出来ないのがとても不便です。
話を聞き始めると、先ず話の趣旨を予測します。
この予測が出来ると、割とすんなりと翻訳が進んでいきます。
ただし、途中で予測に支障が生じると、翻訳がストップして頭の中でフリーズします。
何を言っているのか分からない、意味の無い言葉の欠片になって散乱してしまいます。

まして、最初から予測が出来なかった場合、何を話そうとしているのかの趣旨が分からないままだと、翻訳に齟齬が生じます。
いきなり混乱したところからスタートしてしまうので、最後まで意味不明のことが大半を占めます。

この予測と翻訳の作業に、かなりの労力を使っています。
僕は心と目を中心として、その他の情報を合わせて取り込みます。
それが、障害の特長とも言われる、共感できないという部分を補完(全く異質の補完の仕方ですが)しています。
その代わり、頭の中でヒートアップして、よく微熱が出ます。
話し始めると、長時間に及ぶことも有るので、帰った頃にはくたくたになって、暫く頭痛と微熱が続きます。
話を殆どしなくても、入ってくる情報量が多いだけでも疲労困憊してしまいます。

そんな状態なので、全ての情報に目を配りきれないで、何かを見落としてしまう。
主語が抜けたこと自体に気が付かないことがよくあります。
いきなり予測に支障をきたします。
主語が無いと予測が難しくなりますが、原因を特定する前に翻訳がストップして、頭の中でフリーズしてしまいます。

会話の内容に含まれた別の要素、それは、聞き取れたものに加えて、全ての見えるもの見えないものの情報を分析して、その意味を掴むまでにはその場では時間が足りません。
情報量が多すぎて分析に時間が必要なんです。
翻訳という余分な作業を必要としているので、普通?にその場で分かる、ということは不可能なんです。
脳内をフル回転させても、量子コンピューターの処理能力には遠く及ばないし、これ以上の平行処理ができるほどの余力が無いんです。

もともと、一つの事に使用するエネルギーが膨大で、つまり膨大なエネルギーを一つの事に集中させてしまい、他の事に廻すエネルギーが常に枯渇しています。
自分で話をし始めると、其処から抜け出せずに廻りを見る余裕も無くなってくる。
聞く時とは、全く違ったスイッチが入り、それも途中で止めると再起動が困難な重い歯車のスイッチ。
エネルギーも膨大に使用します。
途中で止めたら、そこで完全に途切れてしまう。
話すことと聞くことは全く異質の事なので、簡単に切り替えが出来ないんです。
切り替えて元に戻した時には、切り替え前の情報は失われていて、それで、話していた内容に戻ることが出来ないんです。
その恐れから、話を途中で止められない。

話すことと聞くことと、どっちが楽かなんて、比較は不可能です。
エネルギーの向かう方向が全く逆なので、一端完全に切り離して、接続し直さなければいけないようです。
とても効率が悪く、応用の利かない、理不尽なスイッチです。

翻訳自体が何故必要なのか、それは結構難しい問題です。
何故、自分の中で理解出来る言葉と、自分の外の普通?の世界の言葉との間が、直接は繋がっていないのか。
何故、翻訳しなければ自分の言葉として理解できないのか。
自分の中だけで、より多くの時間が経過し、外側の世界との交流の無い一つの、或いは複数の広大な世界が出来上がって、独自に進化してしまった。
そう考えるのが一番近いように思います。

それ以上の説明は、まだ無理です。
まだ、分からないことの方が多いのですから。

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